いにおばいばい(いにお売売) 


 浅野いにお漫画を売却するので、さいごにペラペラしてみた。
 感じた。これは宗教だなあ、と。新興宗教。 

 浅野いにおの漫画は簡単に言うと、不幸なことと、ちょっと幸福なことと、どうでもいい接着剤的要素が、研究し尽くされた、現代人を飽きさせない魔法の容量で入っていて、それを重ねてミルフィーユみたいにした漫画です。

 浅野いにおといえば有名なのは「ソラニン」だろう。けどあれはもう売ってしまったので、何か他のやつで話そう。
じゃあ、おやすみプンプンでいこう。ミルフィーユ、プンプンソース仕込みのクリームソース。 ソラニンよりプンプンのほうがたぶんすごい、いにおっぽい。

 浅野いにおの漫画は大抵そうなんですが、人の「弱ってるところ」を狙ってくる。悪い言い方をすれば、弱みを握る。そして癒す過程で自分を浸透させる。宗教も同じだ。ちょっと昔に流行ってた、いきなり子供を連れて、「身内にご不幸はありませんか」ときくためにドアの前まで来る、某宗教の布教の仕方によく似ている。
「そういえばお父さんが最近喉が枯れて困るっていってたわ…癌だったら…」「そういえば新潟のお父さんの親戚が亡くなったわね。」みたいな、どんなに小さなことでも思い当たって話に耳を傾けたら、まけです。「大丈夫、すくわれます」と言われて、安心しちゃう。
 あなたは「すくわれるひと」になり、布教しにきたひとは、「これですくえる」と、幸せになるのです。あなたは宗教に加入し、子供を連れてすぐに布教に行くようになるでしょう。「身内にご不幸はありませんか」と。
断るのにどうすればいいかって?「幸せです!バラ色の人生です!」と言えばいいのだ。それでドアを閉める。
 
 実はプンプンの作中にも、そういった宗教の布教のシーンが描かれているのです。笑っちまいます。なんか子供を連れて宗教の水を売りに来るおばさんの話です。面倒なことにその子供が、主人公プンプンの、憧れの女の子で、初恋の相手だったりします。プンプンは、いや、いにお漫画は、ありとあらゆる、そんな、ちょっとありがちな繋がりを、そんなふうに、複雑に、憂鬱にしてる漫画なんです。それをいろんな手段で「まあまあ、たまーにはいいこともあるぜ」というふうに包んで、それでもガツンとくるところはむき出しのまま残し、最後の一言で、「あしたもがんばれ、しょうがないから!」と結ぶ。
 でも、実は、よーく考えたら、怖い、ひどい。という話です。
 でもあれを読んでよーく考える人なんていないんじゃないか。そういう状態に持っていくことも戦略のうちです。

 プンプンの布教のところを読んで「かわいそうに、子供のことを考えろよな。」と思う前に、その手につかんでいる「いにお教の経典」に気付け。それ、そういう本ですよ。だって芸術だもん。芸術はなんでも宗教になり得るんですぜ。完全に作品の流れのなかに埋まって、いにおが「可哀想と思え!」って言って描いたシーンで「可哀想!」と思ってるあなたはもう逃げられない。
 あの子供のことはかわいそうだと思うのに、紙がかわいそうだとは思わないのかね。他の、全然違う趣向の売れない漫画を、真面目な漫画家を、可哀想だと思わないのかね。
 そう言われてもちっともきいてない。「落ち着くのに(救われるのに)」と呟いたりして。
あなたはその本を、もう捨てる気にはなれない。なぜならその経典があなたに「許されます」「救われます」「いいんだよ」と言ってくれるからだ。いいねえ。迷わず最新刊も買って、教祖様に儲けさせてあげなくっちゃ。そしたらもっと、次のあたらしい教えの書が出て救われる。 きゃー、いにお大好き。ヴィレヴァンにいっていにおグッズを買わなくちゃ!
 
 宗教だなー。一度はまると周りが見えなくなるのだ。

 こわいかね。
でもあなたが怖いと思ったところで、「いにお漫画最高だよ!(救われる!)」とシャウトしている友達に、「それ怖いよ。私嫌いだよ(NO!新興宗教)」と言えるか。
言える人もいるだろうが、たぶんほとんどの人がこう言うさ。「へー、そうなんだ」「読んだことある―。」「え?貸してくれるって?ありがとう。」
必殺社会適応術だー。
 「間違ってるわ(あなたお子さんがどう思うか考えたことある?)」とか、「詳しくどこが面白いって言うの?(どういうところに救われるの?私はこう思うわ。)」とか、苦手な、中身のある会話をするのを避けようとする。中身のある会話をすればそれなりに摩擦を生じ、喧嘩もし、相手にげんなりすることもあり、自分もげんなりされたり痛い子だと思われる危険性があるからだ。危険すぎる。だから従っておこう。
 
 とりあえず肯定しておこう。
 とりあえず借りておこう。
 とりあえず感想をきいてくるから読まなくちゃ。
 わあ、怖いと思ってたけど。意外といける。
 共感するわ。うんうん、そうそう。わかるー!
 頑張らなくっちゃ(救われた)!
 
 おめでとう。いいのだそれであなたが幸せならば。けど思うよ。もうちょっと、注意してくれる、ムキになってあなたを引き戻してくれるくらいあなたを大切に思ってくれる、きちんとした考えを持っている友達を作っておけばよかったですね、と。まあそんな人がいたとしても、あなたが人の話を聞かない頑固者だったら、意味がないけど。まあ聞けない頑固者にはそんな友達はできないだろうし、そういう人はまあ、いにお教が快適で、正解かもね。

 本当に、なんかさ、いけないものにはまるか、いけないものにはまらずに済むかっていう違いは、まともで、なにかに夢中になる前の本来の自分の主義主張やこだわりや、感性、人格をちゃんと理解してくれていて、かつ気兼ねなく物を言い合える。そういう人間が身近にいるかってことだと思うんですよね。「おまえ、今どうかしてるよ!」て言ってくれないとね、自分一人で自分を見失わないようにしようと思っても、もしものときはやっぱりいつか、きますから。
 
 新興宗教にはまるのって、主婦が多いじゃないっすか。社会からも離れて、何となく家族とも離れてるような、そういうのが主婦じゃん。男女平等とか言っても、やっぱり社会から離れて孤立して行くのは主婦の方ですから。
そんなことない、ご近所さんがいるじゃないって言うけど、ご近所さんはご近所に住んでるんですよ? 変なこと言ったら、自分の息子や夫にも迷惑がかかるかもしれないし、明日からおすそわけも受け取ってもらえなくなったらどうする?息子が学校でいじめられたら?怖いじゃないか。だから基本的には自分がハマってることについてそんなに、はりきってしゃべることもしない。(そんな恐怖を振り切ってしゃべるようになった頃には、立派に宗教漬けになっている。)話されたら話されたで、近所の主婦はできるだけ険悪にならないように、頷いておく。まあさすがに無理って時になったら縁を切るかもしれない。そしたらもっと宗教づけになった主婦は孤立してしまう。前より一層宗教にのめりこむようになり、家に掛け軸やなんたらかんたら、後利益のあるものが増えて行く。
いにお教でいえば、ソラニンのキーホルダーとか、プンプンポスターとかね。

 私も一時期プンプンを、結構大真面目に読んでまして、これが全く困ったもんでね、はまるんですわ。はまりだしたら終わりなんですよ。
 そこまで仲のいい友達がいなかったのか、いたけど相談するという発想がなかったのか、わかりませんけど。尊敬してた子が読んでたってのもありますしね。

 やっぱりどう考えても、あれは人に言えない自分の痛い部分やだめな部分や、汚い部分や、変態すぎる部分を、「俺もそうだから(いいんだよ)」っていう漫画の登場人物を通じていにおが慰めてくれる漫画ですから。共感できる部分や、「あー、なんだ、自分は何を悩んでたんだろう!スッキリ!」と思える部分が多ければ多いほどはまりやすいわけですな。
 そういうのを分かっているから、誰もがなんとなく当てはまる不幸を、「不幸ばっかじゃん!」てならないように、「うんざりー」ってならないように上手に他のものもはさんで並べて、いにおが描いて、「はい、漫画!600円!」て言って書店に並べてるわけです。
 漫画本は教祖様代理です。経典ですから、いにお死すとも救いは死せず!
主婦の愚痴や罪の懺悔や、恋愛にトラウマがあるんです、って話を、全部まとめて引き受けて「うん、うん、いいんだよ」と返してくれる最強の自殺を減らすアイテム、かもしれない。「生きる勇気をもらいました!」っていう感謝の手紙が教祖に届いてるかもしれない。はぁ…。
 特にプンプンにおける、「家族の不和」「家族愛の欠落」っていうのは、今のご時世、「これは!ぴきーん!」てなる人が多いでしょうよ。私も、「ぴきーん!」てなったし。逆に、そんなのなくて育ったり、そんなのもうどうでもいいよ忘れたよ、っていう人にはただ気持ち悪いだけなんだろう。なんじゃこれ、不幸自慢か!?みたいな。
 そういう人とも友達になりたいんだけど、ねえ。
 プンプンなんて、現代人ならだれでも全巻(まだ連載中)読んだらどっかに「ぴきーん!」ってくるからね。

 買わないほうがいいかもね。借りないほうがいいかもね。私はあなたに勝手にずけずけ言う友達として、読まないことをおすすめする。
これに絵がつくんですぜ?釣られるよ。

 なんか毎日上手くいかないことがある気もすると思う人(だれでもそうさ!)
 家族が上手く行ってない人(だれもでどこかしらそういうもんさ!)
 夜回り先生の本読んで、夜回り先生に縋ろうとした人(まあねぇ…)
 そういう人は(だれもがそうさ!)読まないほうが良いよ―!いにおまんが。
 私だって、こんなものもう信じまいと思っているにもかかわらず、また恐怖をびんびん感じる。脳みそを黒インクが食っていく音がする。
 怖いことだ。
 これを読んで許されたと思っては…
 これはまずい。宗教だ。
 浅野いにおは、レベルの高い絵を武器にして、「ここを読んでください救われます」と、いにお教を広めているのかもよー。
 布教には武器が必要だからな。例えば前にあげた例の不況では、「子供」がそれにあたる。子供は武器だ。宗教には、救いのフレーズと武器が要るんだ!
 もしRADWIMPS選挙に出馬する気になって、新曲マニフェストを選挙CARから大音量で流し、歌いながら「一票ください」と叫んだなら、一体どれだけの、これまで選挙に行かなかった若者が選挙に行ってRADWIMPSに票を入れるだろうか。結構な数だろう。音楽ってのは芸術だからな。やっぱりこれも宗教になり得る。この場合武器は、あの特徴的で人気のある「ボーカルの声、ルックス、ギターのうまさetc」だろう。
 だからね、芸術はなんでも宗教になり得るの。許しの言葉と、許してくれる人と、許してくれるなんか色々なものは、なんでも宗教になり得るの。
 「これは楽だ」とか「これは優しい」とか思ったら、よく考えてみるべきだよな。あとは、いざという時には自分を止めてくれる、ちゃんとものを考えられる友人を、まあ、何人いても多すぎることはないけど、たっくさんたっくさん、三ケタくらい作って、危ないと思ったらその人たちとよく相談してから、試してみるべきだと思う。相談したら何人かは本気でとめてくれたりするさ。みんなが「そっかー」とか言ってるんなら、それはあなたの友達の選び方が間違ってるよ。もしかしてみんなクローン?
 とっさに「そっかー」とか言っちゃう人は、その罪深さを知るべきだ。私もな!
 
 つーかね、関係ない話、宗教自体は、いいですよ。私も神社とか言ってお祈りしますし。大好きな小説とかありますし。
けどね、なんか、神様に、「今の私のこんなとこ、許して下さい」とか言いたいと思わないんですよ。「なになにしたい。叶えてください」とか、祈った覚えもない。何言ってんでぃ、て感じですよ。
 私はね、「こうこう、こうするから、やり遂げるから、見ててください。」て祈るんですよ。そしてこうあるべきだとも思うんですよ。もう毎年正月が来るたびにこればっかりですよ。
 「叶えてください」って祈るのなんて、最愛の人や自分が、不治の病にかかった時くらいで十分です。生き返らせてほしい、とかね。私はそう思います。
 大抵のことは、自分でやらにゃ、なんともならんのですわ。
 
 なにかあれば、「神様なんていないのねっ!」とか言う人より、私は、「おらあっ!やってやるから見てろ!」と言うような、人のほうが、自分は好きですね。だから私の好きな人たちは頼ることが下手で、恋人ができないのかなあ。
しかし私は、そういう彼らが大好きですよ。
 
 
いにおばいばい。
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