夕帰りの子供たち 平成23年2月の日記+α

3月5日 憤死
 
 友達が相次いで入院したり旅行に行ったりしちゃうのでつまんない。
 つまらないにまかせて久しぶりにピクシブを開いてみたら吐き気がした。何だあの腐海は!だいたいいつからピクシブにR−18コーナーができたのです!?
 いや、昔からあったのかもしれないけど。
 
 さいきん廃人オタクみたいなことをかきまくってて恥ずかしい。何のオタクなのかときかれると困るが、人と話す回数が減る長い休みはどうもやっぱりひどい有様で、だって勉強とネットしかやらないんだもん。
 昔は長い休みに入ると人と喋ることが増えてたんだが、あんまだれもかまってくれないな。
 何も思わないので勢いもなく。
 
 こんな生ぬるくやってたら腐るんじゃなかろうか。 
3月4日 大津の電車

 風邪をひいて講習やすんで寝てたら、幼馴染から電話がかかってきて「ディズニーランドいかない?」って言われた。そこで頭痛をこらえながらディズニーランドを貶したうえに、「ウィダーインゼリー買ってこいや。」と命令した。
 まさか買ってくると思わなかったのに、そいつは下高井戸駅の近くのコンビニで買ったと言うウィダーインゼリー(マスカット味)を小田急線五駅分自転車をこいで持ってきた。ちょう嬉しい。彼は私を好き過ぎるんである。マジ結婚してあげたいくらい私が好きなんである。
 
 私は別に彼がいないと死ぬと言うわけではないけど、彼がいないとさみしくてたまらないと言うわけではないけども、彼が私を好きであるというのはいいな。嬉しいな。
 「彼が私を好きなのが好き」とかそういうんじゃなくて、「彼が私を好きで、私も彼を好きだというのが、いい。」もちろん私の「好き」はそういう好きなじゃないけど、だけどもいいじゃんね。
 てれる。

3月3日 時に及んで当に勉励すべし、歳月は人を待たず。

 11日ごろに病院に氷嚢を買いに行こうと思う(ついでにいとこのお見舞いをしようかと)。

 風邪を引いた。
 最近自分の、不快な癖を削り取りすぎて、つまんね、かもしれない。でも痛ましい癖のある私を見て、そういう癖のあるところを好きだと思うなんて、あまりにも頭おかしい女の子風だ。
 私は博愛にあこがれてるわけじゃないし、どっちかというと博愛って理解できないけど、そういうピンポイントで突き刺さってくる好意は苦しい。もろいし。
 最近日記を書くのがあんまり楽しくないのは、落ち着きを手に入れてしまったからでしょう。欲しいものと欲しくないものもはっきりして、殺したい人と殺したくない人と、どちらでもある人とがはっきりわかれて、なんかあまり動揺したり、しないというか。どちらにしろしかし、私はなかなか枯れててださい感じだ。今。
 漢文のテキストをダンボールから出してきてはじめて解いてみた。楽しいけども全然わからんぞ。
 最近ちょっと激しい運動をするとすぐに軽い熱が出るから勉強するしかない。なぜ熱が出るのか知らないけど困る。
 勉強するとどんな欲も失せていく。
 ごくまれに勉強するとお兄ちゃんひっかけたい欲が強まる変人がいるようなので気をつけましょう。私は違います。つーか私にそういう欲はありません。


3月2日 くかたけのふし沈みぬる

 高校に入ってから職員室に怖い声の放送で呼び出されたのは今日が初です。はるになるとどうもわやや。なんか事件を起こしちゃうのですわ。
 なんか日に焼けた体育会系の先生に怒られた。あるようなないようなことをあるようなないような口調で言って答えたので私と先生が立っている周りはもはやぶよぶよしていた。何一つはっきりしない空間で、日焼け先生はあっけにとられていた。
 途中から友達も呼び出された。この友達が曲者で、私よりも嘘みたいな嘘じゃないこと言うのが上手いせいで、話はちっとも終わらないで雪が降り始めた。ここまでくると私と友達はむきになっていた。絶対に折れてやらないぞという気迫に満ちていた。いやまあ我々が何らかのものに対して気迫に満ちているのはいつものことなんだが、なんかそれが二人分集中して辺りがぐにょぐにょしていた。
 本来女子高生というものは、大人を苛立たせ、自分を不可解な存在に見せることが得意で、一週間くらいならそういう「わけわからない」状態をキープできるのだ。
 うんまあそういうことで、私たちはもちろん勝った。もう一人の女の子が、彼に謝れと言えば良かった、と言っていた。そりゃやりすぎだ。
 まったくけしからんことに、反抗の快感というのは、それが久しぶりであればあるほど骨に染みる。雪がさらさら降ってる校庭にバックを持って出た時、こたつに入った後みたいだった。私たちはスターバックスに入って彼女が持ってる株主優待券でケーキと飲み物を飽くまで飲食した。
 二人とも若干呆けて、「面白かった」と言っていた。
 笑い方に力がなかった。実際、そんなに面白くもなかったのだ。あんな頭脳の無駄使いみたいな反抗は、筋肉の無駄使いである暴力と一緒で、なんだか後から思い出すにはその快感は薄汚れすぎてるのだ。
 いやしかし、それにしてもあの教師は理不尽だった。
 しかもそのせいで風邪ひいた。37度6分ってどーゆーこったい。わたし平熱36度なんだけど。でもなんか最近毎日37度2分くらいあるんですよねー。肝臓やられてるのかもよてきなことを保健室では言うんですが、私お酒も飲まないし、肝臓やられるなんてこときっとないわ。


3月1日 こころ

 ミニストップの「ちょっとご飯食べるスペース」みたいなところで二時間、アパートの人に横流ししてもらった英語の添削問題を解いてたら、隣に工事のおっさんがどかっと座ってきて、「ねえそれ面白い?」って聞いてきたので、「まあまあです。難しいですようー。」とか答えておいて、そしたらなんかそのおっさん、息子の話を始めて、息子が私より一歳上なんだということが分かって、おっさんの好きな食べ物は茹で卵で、おっさんの好きな本は、なんと「蟹工船」だった。まじかよ。「おじさん大丈夫?」「え、なにが?うへへ。」て言っていた。
 おっさんが「蟹工船」に出てくる人物で好きなのは芝浦と宮口だそうだ。
 宮口っておもっきりトイレに閉じ込められて死んじゃう人じゃないか―。芝浦はわかるけど宮口?
 「蟹工船って、日本史の資料集に『太陽の無い街』とかいうやつと一緒に載ってた。」と言ったら、「へえ、それも読んでみたいなあ。」と言っていた。こやつ結構色々読んでいるようである。
 「お嬢ちゃんが有名になっても、まだ俺は○×建築で働いてると思う。」と言っていた。「日本史の資料集に載るようなことしたいな。」と言っていた。私も日本史の資料集に載りたいと思った。
 
 おっさんが「おっと時間だ。」と言ってスパゲッティのパックを片づけて、「じゃあ」って言って出て行ってから、私はぐったりしてしまった。久しぶりに生きてるおっさんと話したのだ。歯がおっさんらしくもなく真っ白だった。煙草もコーヒーもやらないんだろう。いいことだよ。
 おっさんの息子と、芝浦と宮口に会いたくなった。図書館で蟹工船を借りてきちゃった。
 おっさんの仲間が、私の家の向かいの家を解体していた。奥の方に高そうな壺がよけてあった。家具もベッドも裏によけてあった。あんなにたくさんのものを残したままで解体だなんて、また孤独死だろうか。最近ここいらで多いのだ。工事の人がうっかり壊したらしい水道から、瞬間びゅびゅっと水が噴き出し、しかしすぐに工事員のゴム長で押さえつけられた。

2月28日
 
 説教がましい日記はよくない。ですね。うーん。高校生の癖に生意気な、と。
 あー三月終わり。
 みなさん更新してなくてほんとにごめんなさい。
 いまからばんばん書く。久しぶりに長い文(そこまででもないじゃん)打ったら指が眠い。ていうか部屋が寒くて朝五時の指は冷え切って上手く動かないれすう。
 
 私のクラスの怪我した子が入院して手術するらしいので、なんか死語なのかそうでもないのか知らん言葉で言うとマブダチてきな感じなので、一応ここに書いとくけど、だいたいいつから入院でいつ手術。そしていつお見まいに行けばいいの。何が食べたいの。その病院行ったら売店で氷嚢買えるって本当なの。おまえ氷嚢奢れよな。


2月27日 三塁フェクション

 さて、お久しぶりです工藤です。
 もはやどれくらいお久しぶりなのか分かってません。申し訳ない。進級に関して色々あったりとかなかったりとか、でして。

 
 多くの人に愛されてる人と、そうでない人がいる。
 追い詰められたら、最後は愛されてるか愛されてないかで勝ち負けが決まるのかもしれない。愛されてる人には力がある。
 愛されてない人にとって、愛されてる人を直視するのは意外と苦しかったりする。
 苦しすぎると、愛されてる人の言葉も聞けないで「うわ、くそくらえ。所詮理想だね。」とか、ベタな科白を吐いたりもぞする。いつかことごとく負けて孤独になって、死んだり死んだようになるのを、愛されてない人は分かってて、暗くて、苦くて、不安なんです。
 
 私だってたまにはそういうことになる。
 私はある面では優秀かもしれないが、それをはるかに覆い隠すような欠点を大量に持ち歩いてるので、大抵のお忙しい皆さんには、娯楽としてしか、もしくは日々の友人してしか必要とされない。愛されてるわけじゃない。愛するというのは、そういうことじゃないと思う。
 
 私は愛されてる人が好きだ。なぜなら彼らは他と違って優秀で、完璧じゃなくても優れてて、光ってて、有望で、ああもう、ホープだ。なんということでしょうなんということだ。
 でも同時にうざくてたまらない。
 
 いつもは心全部が快晴で、露の一滴もなくそのひとの優れているところについて感心し、なんてすばらしいんだろうとか、見習おうとか思っている。ほんとに、こういう人が大好きだなあと思っている。
 でも時々、黒い光がさすように、閉店時間のスーパーの、真っ暗な中、ダンボール箱の隙間を縫って最奥まで力づよく真っ青に照らす朝日に射抜かれたように、一瞬にして体も心も染まってしまって、冷たくなって、貧しくなって、苦しくて憎くて、痛くて、どうでもよくて、ああもうあんなやつ!と思う。まあ心がぐらぐらの私の中ではそういう明暗が一日のうち何回もすりかわって、時々日記を書いてるうちにいつの間にかすり替わってて困っちゃうんです。前と後ろで行ってることがあんまりにも違くてね。まあ嫉妬に似てるかもね。
 駆け込み訴えみたいなことにもなるわなそりゃ。
 でもそういう動揺に呑まれることはないな。なぜって、小さいころからずっとこんなふうに心はどよどよ動いてるんでして、もう慣れたんです。本当の自分が思ってることを、見わけられるようになったんです。ほんとうは愛されてる人が好きなんである。
 殺してやりたいと思ってるときにも、その人を好きで、殺してはいけないって思っている。
 逆に、好きなだけでいるときは、憎いだなんて、ちっとも思わずに、見ている。
 
 私は隣人を見る。
 ある時の私と同じように愛されまくってる人に牙をむいている隣人である。くそったれとか吐き捨ててる隣人である。
 私はその隣人が、私自身も愛しているあの人を、殺してしまうかもしれないと思うと金槌がほしくてたまらんが、今すぐこいつを殺してマンホールに押し込めてしまいたいが、心を切って開いて見れば、まあ心臓のかたほーではそいつに「そうだよねえ」と言っているんだ。それで私は誰も殺さないし、殺したいとも思わなーいという顔を最終的には張り付けて、えへへとか言っている。
 私はこんなに素敵な人たちに話しかけてもらえてまったくすごい、思いがけない幸せだ、ありがたいぞ、と最終的には思う。好きだ。と思う。
 それがほんとにほんとの私の考えなのかといわれると、そんなの知らん、が、でも私はそんなふうにして自分の中で色々制御して、くるくる回って、止まって、言葉をしゃべったりする。たまにちょっと偏ってたりするが、いや、でも、私だっていつまでも凡人で居られるかい、愛されるようになりますよ。
 私は誰も殺さないし、死にもしない。
 そうは見えないかもしれないけど私は生きていて楽しいんです。
 いや、そう見えるよね。いや…これもわたしの…
 生きていても何がうまく行くわけじゃない。何を得るわけじゃない。この歳で何かを得るとしたらそれは物じゃない。富じゃない。名誉でもない。自分である。…そんなもの、死ねばもろとも消えてしまうわ。
 知っている。それなのにそれが私には、大切でたまらないんです。歴史なんです。命なんです。命なんです!
 死ぬということは、わからない。くわばらくわばら。
 私には残していけないひとが、いる。
 私が死んでもまだ多くの人に愛されて、平気で生きるかもしれない、私が死んだことにも気付かないかもしれないような人達でさえ、私は残していけない思いなのです。馬鹿らしい。まことに。まことに馬鹿らしい。悔しい。
 決して、私はその人のなかで大切な一片であるのだから生きなければだなんて、そんな独り善がりは深夜のこうもり、一瞬だけである。やがては朝靄。散り散りに覚めてゆく。
 凡人というのはこうやって生きていくもんだなんて、そんなことは言えないね。他の凡人のことなんて知らないね。
 ただおんなじ人を愛してる者同士なら、ほんのちょっとの部分だけ繋がれる。私に見えるのはそれだけだ。
 だから、君があのひとの事を一番って言ってたのに、ある日別の彼氏を作ったとか言って、あの時私がああいう感じにやさぐれてたのは、別に怒ってたんでもなくて、寂しかったんだよ。なんか、怒ったりできないんだよ私は。弱いんだよ。いや、弱いんだよってのはなんだか、だめだ。同情を誘ってるみたいでね。そう。私は強いんだけど、怒れないんだよ。怒らないさ。怒らないけど、ちょっと、腹がったったんだよ。三日三晩、眠らずに腹を立てることに専念してたくらいにね。
 三つ目の晩が明けた朝、がたがたする足でブランコをこぎに行った。朝靄の匂いがした。そうねえ、私は、朝靄なんてもの、今まで一度も、この目じゃみたことがないんだよ。それでも、生きててよかった。

2月26日 チャップリン自伝

 チャップリン自伝、小学生のころから数えたらいったい何度読んだことだろう!
 私はコインロッカー・ベイビーズに出てくる兄弟は好きじゃないけどチャップリン自伝に出てくる兄弟は好きや。

 試験期間中なのに徹夜で再読してしまった。まあ数学以外は万事悪いようにはならないのだ。
 睡眠不足を埋めるためにブドウ糖ばっかり食べている。ブドウ糖の塊を買う。
 甘酒を買う。夜の寒さ。 
 頭いい時代がやってきたかもしれない。今勉強するしかないだろう。とかいうことをおまじないみたいに書いてると、いつもほんとに黄金時代がやってくるからやるんだ。数学は高校でたらちゃんと勉強する。にゃー。
 死ぬまで勉強すると言うのは、死ぬ気で勉強すると言う意味ではないんだよ。私はまだ何十年も生きるかもしれない。
 友達も大学行ったら一人暮らしするらしい。しかしさすが金持ちの子供。学費はらってもらえるし貯金で暮らしていけるとは。私はこの何年かで貯金というものがいかにすぐになくなるか、そして親にお金を預けるということがどんない危険なことか、身をもって思い知った。
 大学はいってもはいらなくても、奨学金もらっても、どうせ私はバイトの嵐だよ来年の今頃は。そして本をいっぱい読む。家電買うくらいなら本を読む。もう貯金はない。高等遊民うっらやま。

2月25日 人喰い女の姿が見えない

 サルトル全集の一巻を発掘した。試験が終わったら読む。
 「何読んでんの?」「サルトルさ。」

 リモコンテンコモリ

 お母さん、わたし、勉強します。死ぬまで勉強します。高校二年間だらしなく過ごしてしまった。しかしそれなりに、勉強じゃあ気付けないことに気付くことができたと思います。それどころかこの二年間がこれからの私の人生を決めて行く気さえします。
 昨日弟にお母さんが「死ぬ気で勉強しろ」と言っていて怖かった。
 お母さんをお父さん化させてしまうのは、私たちの罪だ。お母さんはたまらなくいい女でいいのだ。お母さんは私の軽蔑する女とは違う女であるといいのだ。
 お母さん、私は勉強する。


2月25日

 自分のホームページ上でこそ、御覧のような、「おまえはいつもこんなに色んなものを好きになったり嫌いになったり、明るくなったり暗くなったりしてるのかよ」と言われそうな日記を書いていますが別に学校でもこんなこと喋ってるわけではありません。学校でしゃべってる時はちょっと表現が大胆なだけで、言ってることは大したことじゃない。だから友達が少しはいるのです。だから学校で会う時にはいつも誰かと笑ってるのですよ。
 そーゆーもんだよね。いくら感受性豊かとか言う褒め言葉があっても、感受性むき出しとは仲良くなれない。近づけないし、追いつけない。一瞬のことばっか言っていたら友達はできない。一瞬の感情は消えても友達とは長く付き合うものだからね。友達には点ではなく線とか面を見せなくてはいかん。点を解ってくれる人とは案外仲良くなれなかったりする。
 たまにすぐ消えることとずっと続くことの境目が分からなくなる。失敗である。
 ここにある日記はほとんどがそういう失敗によって作り出されている。まあ悪くないんだけど、恥ずかしい。
 
 そういう状態だから親には見せられないし、昔の友達にも見せられない。最近の私を見ているごく近い友達にしか見てもらわない。怖いからな。
 そんなもんをネット上に公開するのはどうなのかと聞かれると答えに詰まる。まあ見つかっちゃったら見つかっちゃったで、いいんですけど、なんかとんでもなく近づきにくい人間だと思われるかもしれないから。
 
 つまんないさみしい。別に誰か隣に置きたいわけじゃないし、隣に来てくれる人ならいくらでもいるんだが、みんなどこかしら隣に置いておくには苦痛だ。一緒に住むとか、一緒に何もしゃべらないで座っているとか、そういうのは誰とでもできることじゃない。
 明日お茶するのは誰とでもできるけどね。
 
 今は誰かと一緒にいたいというより、誰かと一つのものを作りたい。なーんでもいいんだけどね。
 別に私の意見なんてそのなかに一つも取り入れられなくていいんだけどね、ただあなたがなんかしゃべって私が書きとるとか、それだけでいいんですよね。たのしいんだよきっとそれだって。
 それでできたものを後生大事にとっておきたい。
 
 そんなことより、人と話すのがうまくなるにつれて文章書けなくなってる気がする。文章への憧れが萎えてきたというか、そういうかんじ。まあこれも、すぐ変わることかもしれないけど。くるくる回ってるからね。根を張れないけど、根を張ることにこだわらない。

2月24日
 
 相田みつをっていいとこどりだな。そこのポジションが一番らくちんだと思うんだけど。でもきっとこっちのほうがたのしいよ。
 さいきんは、ものすごい腐女子と仲良くしています。匂いがするくらい腐です。彼女は走れメロスも駆け込み訴えも、こころも、腐フィルターを通して読みます。きもちわるいです。でもたのしいです。けどずっと聞いていられる話は何一つしてくれません。やっぱちょっとこわい。

2月23日
 
 私が嫉妬しないというのは本当かもしれない。
 そういえば私は、あんまり人を羨まないし、ねたまない。
 非常に昂っても、表皮はいつも冷えた状態で、静かな空気の中で吸って吐いてして、そういう感情はほとんど無意識に消している。
 「なんであの子だけ愛されるんだろう。うきー!」とか思ったことない。そういえば。
 代わりに、自分になくて「あの子」にはあるものがしっかり分かる。努力すれば私もそれを会得できる。大抵の場合はそう思う。私は化けるのが得意だと思う。演じるのとは違って、心臓の根元から変わるのだ。
 真似できないのは心の美しさだ。
 心が美しく見えるようにするのは出来ることだ。しかしそれは、しょせん私が今まで色々のまねをして重ねて折ってかぶせた心のうち、一番表面に出ているのが美しい面だというだけで、その裏側にはもっと酷い、汚いものも重ねてある。
 そうじゃなくて、そんなんじゃなくって、蕗のとうのようにしぜんで、芹のように美しく、まっすぐに、一筋の光のように綺麗な心を持っている人が時々、いるのです。私はそういう人と、そうでない汚い人との違いが、分かるつもりでいるよ。
 私の心を作ったのは屈折です。光も屈折します。ところどころケロイドのようになって、乱暴にくっついています。
 ドウモダメダ。私は冷静などではない。私が冷静だなんていうのは、奇妙だ。いや、でも、心が動かない。あまりに一人ぼっちだからさ。でも本当に、羨んだり、ねたんだりしない。代わりに、私でさえ持っているのに、あなたにないものも見える。じっくり考えれば誰にでもわかることだ。そして、それについて考えるのは、とても卑怯で、親切で、愉快だ。
 生きていくのは、疲れる。
 お酒を飲まないのは、寒い。お酒ってどんな味なのだろう。
 煙草は、どんな味なんだろう。
 嘘をついたらどんな気持ちか。
 私が感じたはずのこと、全部忘れてしまいそうだ。
 肺から血が出てもいいくらいに、自分は肝を入れ替え続けてるんだから。
 わかんないなあ。私は立派になりたいよ。いい大学に行って、いい就職をして、親を安心させたいよ。しかしいま、それしかない。なんだかね、もうこうなったら思い切りの問題でしょ。まだ17。今からどんな夢だって叶うし、見せてあげられるでしょ。そうかなあ。それがいったいどうしたんだろう。部屋を出たい。寒くて狭い。本棚が後ろから迫っている、部屋で、私は何か明るいことを思いつく。そんなことあんまりない。ここじゃあ日光も、憂鬱な雨だ。
 とか言いつつもちゃっかりそれなりの大学に入って親を養えるくらいの就職をしなきゃ、だめだ。それができるのが工藤だ。そうじゃなきゃだめだ。なんのためにお母さんが私を育てたのか、わからなくなるじゃないか。

2月22日

 どこまでがあなたたちに読んでもらっていいのか、わかんなくなってしまった。
 ありえないくらい昨日書いたことについて忘れている。なにか障害があるんじゃないかと思うくらいだ。どうしたっていうんだ。なんか素晴らしい気持ちになったみたいだけど、昨日何があったんだか、よく覚えていない。なんか一日中しゃべり続けてただろうと思う。それは近頃の私の性質らしいから、昨日も喋り続けてただろうと思う。
 布団に入って嫌な事がぶわっと噴き出してきて、寝た。どうしたらこの邪魔っけな枷はずれるんだろーな。
 人が死ぬっていうのはすごいことだ。ぜんぶ消えてしまう。そんならなんで生きてんだ。こんなとこで負けてたまるかという気持ちだけで生きてるんです。あとは将来にあるたった一つの約束のため。他の約束なんてどうでもいいよ。駆け込み訴えみたいなことにはならない。もしくは常になってる。いまさらそんな気持ちに任せて、続いて行くものを断ちきったりしない。私はさみしい。誰かと一緒に作り上げたいのだけど、難しい。何でもいいから一人は嫌だ。

2月21日 だうち
 
 実は、初めて会ってからあんまり時間のたっていない他人に「工藤さんは裏がないいい子だわ」とか言われるのが苦手だったりする。苦手っつうか「あ?なんで?」って感じ。というわけで裏っぽいところを前面に押し出して振舞うようにしてみる。無意識にそうしてしまう。年下の子はそういうのを喜ぶか、どん引きするか五分五分だ。同級生には「裏がない」とか「嫌味がない」とか言われたことない。ある意味おんなじ年に生まれたような人たちとはわりと自然に心を開いて付き合うことができてるからかな。
 しかーし、私たちのお母さん世代にそれをやると、「あの子とうちの子を遊ばせるわけにはいかん」とかって雰囲気になる。なんでだっつうの。とにかくすごく嫌がられる。忌み嫌われる。大人になるとみんなそんなふうにかたくなっちゃうのか。つまらんね。
 大人になってからも、みたことない得体のしれないものに、死なない程度に積極的でいたい。愛してるんだよまだ知らないものを。
 今の私なら、初対面で「セックスしたい。げへへ。」と言ってくる人の話だって、「えー…」とか思いながらもちゃんと聞けるとおもう。だが元貴族という育ちのせいか知らんが、ありえんほど身なりが汚い人が話しかけてきたら、「このお金で服買ってきて銭湯はいって着替えてきてから」と言ってしまうと思う。そこは私のまだ未熟な、というか餓鬼で、弱いところだ。
 ていうか思ったんだけど、私が「育ってる」のはここ二、三年の間だけで、それ以前は「伸びてる」だけだったんかもしれない。
 私は育つためにいきてる。変わってもいいんです。

2月20日 ハアトビート きのうははるきの日記を読み過ぎた。
 
 言葉が上手く出てこなくて死にそうになるってことが、人との会話においては減ってきた。
 それと、師匠に毎日電話したりメールしたりしなくなった。
 「距離を知った私」という感じか。いや、まだ全然そんなとこまで行かないけど、何か、ずっと未来まで続いて行きそうなものが見えて、気が楽になった。生きていたい。
 自分の体や心を、ずっと先まで使っていきたいという愛着を持てるようになってきた。強く優しくなりたい。私は。
 
 今日エスパー加藤に、一年ぶりに手相を見てもらった。
 「手相変わったね」と言われた。運命線が出来たねというようなことを言っていた。気遣いを無駄なほどしちゃう人の線が減った、とかって言っていた。そういうのを深く信じはしないけど、エスパー加藤の言ってることは結構気になっちゃうのが私である。ちなみにその、気遣いを無駄なほどしちゃう人の線がくっきりついてると、良妻賢母になれるよ、ってことになるらしい。私はね、確かに良妻賢母方面にだけ力を入れるのをやめたのかもしれない。諾々の恐ろしさを知って、いつかはそれが相手にとってよくないことになっちゃうかもしれないと思った。あたりまえのことだ。でもそんな当たり前のことを、大人に教えてもらったり、神様に言い聞かせてもらったりしても、わかりゃしないんだと思う。私は自分で気付いた。それが重要。
 誰かが作った言葉を使って、私の心でもって相手に伝えることに、無限の喜び、誇らしさがある。ただそういう良さをわかればわかるほど、もっと時間をかけて喋りたいなあと思う。急がなきゃいけない人生が嫌だ。けど、それがこの時期の醍醐味であるのだろう。
 先に「誇らしさ」という言葉を使ったけどちょっと違うかもしれない。私は今の自分に何一つ誇らしさなんて感じていないかもしれない。だけどたしかな「成長している」という手ごたえを感じている。それがいい方向なのか、悪い方向なのか、そんなん知らない。今から気付く。
 けど私は、今まで言いきってきたのとは比べ物にならない呼吸の力強さを感じながら、「今までやってきたことを後悔しない。」と言える。もう少ししたら、あのちょっと恥ずかしい日々の自分を見ても、「よう、すがすがしいな。」って大切にできると思う。忘れないと思う。もうこれからは、失うことはあっても、失ったもののことも何一つ忘れない。
 失いたくない。ほんとうに努力して、心から愛していこうと思う。
 聞こえるか?僕の、新しい歌だ。(村上龍 コインロッカー・ベイビーズ、より)
 なんてね。(私は別にコインロッカー・ベイビーズが好きってわけじゃありません。好きでも嫌いでもない。かっこいいこと言うね。って思うけど。たまにはあの中のかっこよさの一部に嫌気がさしたりもする。ラッドウィンプスとかそういうやつらが、持つかっこよさも入ってると思う。)
 
 新しい歌だとかいっときながら、今日はなんかだめで、体調がダメで、昼から学校行ったんですけどね。弟が昼なのにアイス食ってテレビ見とったわ。いけるぜ、でも。いくもん。
 
 お父さんが死んだら、かなしいと思う。お父さんについては書くことがいっぱいある。今度書く。
 お母さんが死んだら、かなしいと思う。けど、これからどうやって生きて行くか、それよりも強く考えると思う。
 弟が死んだら、お母さんを慰めると思う。お母さんを守ると思う。私はたぶん、弟が死んだ瞬間しか悲しめないと思う。なぜなら私のお母さんはとても弱いから。
 でも私は、師匠が死んじゃったら、「どうしよう」って思って、でも何もできなくなると思う。なぜなら師匠が教えてくれたことや気付かせてくれたことは、まだ完全に私の中にあるんじゃなくて、私と師匠の、間に、漂ったり置かれているんだと思うから。もしかして私がわざとそうしているのかもしれない。
 そゆことを今日ずっと、お昼の時間考えていた。そしたら家から火が出て弟が死ぬ気がしたので急いで家に帰って、弟が「なんかあまいものないのー?」って言ってたからチロルチョコをあげて、なんか泣きそうになりながら勉強した。別に悲しくない。別に苦しくもない。でも泣く時はあるです。

2月19日

 宿題も家事もやらないで27時間起き続けて朝、学校に行って二時間目で脱出、二時間の空き時間をよく行った神社で放心したまま過ごし、学校に戻って化学を二時間受けて家に帰って布団しいて、この体この心この頭も何のためになるんだろうと考えて夜中の二時。私の頭脳と私の体はいわば倦怠期の夫婦かな。お互いに手を出すことをやめた。
 学食で買ってきたハンバーグを食べてた。
 おなかが減らない。頭痛が時間によってはすごいので日記を書く気になれません。みなさんごめん。


 
2月18日 日進月歩

 坂の上の雲に出てくる人で誰が一番好きですか。って聞いても「坂の上の雲よんだことない。」って人が多すぎる。つまんね。
 NHKドラマでもやってたんだから。(コレ)オンラインでも見れるし。(コレ)
 東郷平八郎はわいの親戚やで。
 私が好きなのは子規だけど。ドラマ見てる少数の友達の中では好古が人気ですねえ。やっぱ阿部寛がやってるからね。かっこいいね。
 ボリスもかっこいいけどな!あのドラマみんなかっこよすぎる。
 今はドラマはあれしか見ないです。と言っても今はドラマ放送してませんけど。
 私は、みじめな言葉を使って言うと、「衣装萌え」なので(「〜萌え」って言い方は嫌いだ。一説によれば工藤はあるひとが「スーツ萌え」と口癖のように言うのを聴いてその言葉を嫌いになったらしい。今しらべて初めて知ったのですが「萌える」には「利息がつく。」という意味もあるんですね。へー。)ドラマを見てると「うはー、いいなあそれ着てみたい。ほしい。」と思って、必ずそういう服がどこでいくらで手に入るのか調べます。買わないですけども。
 急に分からなくなったんだけれど、「一説によれば」の結びはどうするべきなんだろう。「〜らしい」でいいんだろうか。「〜とも言われている。」もOKだろうか。「〜だそうだ。」「〜と聞く。」「〜かもしれない。」OKだろうか。「一説によれば」より「一説によると」のほうが周囲では使われているようだ。「よれば」は古いのかね。
  
Q.「明日家に来るの?」
A.「天気によっては行かない。」→「天気によると行かない。」→「天気によるよ
                   →「天気によれば行かない。」→「天気によるよ
 
 考えれば考えるほどオレンジの言い方で済ませたくなっちゃう。もうちょっとゆっくりしゃべれたらいいのに。そしたらもっと考えて喋るのに。なあ。
 そーゆー意味では私は文章を書くのが好きだ。普通に喋ってる時よりは軽率でテキトーな感じは抜けていると思う。とくに私としょっちゅう喋ってるクラスメイトとかなら、このホームページを読んで、「いつもより言ってること控え目で穏やか」と思うでしょう。まだまだわざとのこしてる所も含めて危険な部分多いけど。
 
 文章を書いて何か言おうとすると、あの空気伝染的なおかしみや、雰囲気の共有を演出することはあんまりできなくなって、そういうのを可能にしている人がプロなんだと思う。
 最近の小説読まずに一昔前のものばかり読んでるからか、言葉が古いとか感覚が古いとか、読みにくいなどの感想をよく頂く。もっとキャピって感じで書けとかね。キャピってなんだし。
 同年代の子たちが食べたものとか行った場所とか「なう」とか書いてる場所をよく見るけれど、あれが「キャピ」なんだとしたら、私にはその「キャピ」ってやつが全然わからないぞ。生ぬるいじゃないか。別にあれは暖かいベットの上で丸まってる毛布みたいな感覚を楽しむものなんだろう。素敵と思う。が、「キャピ」なのか。知らんしどうでもいい気もするが。
 
 ってね、こんなこと考えるのは日記を書いてる時だけですよ。言葉についての専門家にもならないつもりなのに衣食住のことも未来のことも考えず、碌な勉強もせずぼんやり言葉のこと考えてるわけないじゃん。
 何物にもなるつもりなく、何物にもなる計画なく、全部に手を伸ばして、寝る前に今日思ったことをごてっとブログに書き込んだり、別にいい日でもなかったのに「今日はいい日だった。うふっ。」って言って布団に入るような人間にはなりたくない。この体が、髪が、かわいそう。
 だってそんなんは、なんか違う。自分の心をなまらせながら「考えてるよぼく」って言うのはやめようぜ。あまりに生ぬるい。責めてるんじゃないけど見ててこっちがどうしようかと思う。「考えてるよぼく」って言ってるのが演技じゃなく、あなたが本気でそう思って言ってるのを知ってるから怖いんです。考えるのはいいけど、考え方ってものがある。人生何十年か知らんが、死んだように生きるな。思うておるより人生は、短いぞ。精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。っていっても「いつも本当に正しいと思うように生きてるぼく」って言うんですよな。そういう人にうまい言葉で考えを分かってもらうことができないのはたぶん私の力不足。それともそんな餓鬼のいうことには耳を貸さないか。

2月17日 僕が生き急ぐ時には

 人ごみの中で昔好きだった人に会った。まじかよ的遭遇。先週の事だ。
 昔好きだったと言うか今も好きだけど。
 しかし二、三年前の自分の男の子の好みって、ほんと酷いけど、「いい顔。いい体つき。」だなー。今日学校で「工藤ってどういう人好み―?」て聞かれて、今はどんな人が好みかなあと考えた。ほんとどうなんだろう。男の子の事、しばらく考えてなかったからなあ。
 工藤は彼女持ち、の噂が思うように広がらなくてつまらない。なんかみんな言っちゃいけないことだと思ってるらしい。
 うんまあ、ありがとう。 
 ちなみに質問があったから答えとくと、ユーミンの曲は「hello,my friend」が一番好きかな。でもカラオケで歌うと誰も最後までちゃんと聞いてくれないという難点がある。
 ツイッター、楽で部分的に満たされそうだな。ミクシー友達いぱいできそうだな。でもいいよ。私はその分歩いて会うから。くそうお前らたのしそうだな生ぬるそうだな。くそ忙しいぜ。貯めなきゃ貯めなきゃ。生きねば!
2月16日 おとうと

 春が来た。
 こんなに気持ちのいい春はないと夕方には思ったけど、夜十時に郵便を投函しに行ったら空がひらけすぎていてなんだか怖かった。
 19日、母がクーポンを例のグル―ポンとかいうサービスで買ったと言うので学校の帰り、母と弟と、三人で祖師谷大蔵のカレー屋に行った。
 いつもは全然客の入らない寂れたようなそうでもないような小さな店に十人以上の客がひしめき、おじさんがそれを一人で切り盛りしている。ぜんぜんまわっていない。バイト雇った方がいいなあと思いつつ、結構な時間待つ。隣のテーブルに座っているカップルの男の人の方がいらいらし始める。向かいに座る女の人に「俺これ結構我慢してんだぜ」的な事をいいまくる。女の人はそんなに苛々していなかったようだが、思い出したように苛々してるふりをした。
 「そうね、随分待つわね。イライラしちゃう。」
 女の人がそう言った時、弟が「いやだなああいうの。」と言った。
 母は黙って窓からウルトラマン像を見下ろしている。「心が狭いといいことがないと思う。」と私が言うと頷いた。
 こういうとき家族が瞬時に思い出すのは父の事だ。父は心が狭い。人の事情を考えると言うことをほとんどしない。偉そうにふるまう。強引で勝手だ。
 最近彼の二番目の子である私の弟が広い心を持ち始めたことを大変不満に思っているらしく、高いものを買い与え、奇妙な叱咤激励をすることで自分の仲間に戻そうと必死である。そんなことばかりしていても生きてはいけない、って私は思う。
 弟がブックオフに行くと言うので駅で別れるとき、「好きだってことは必ずしも合わせることじゃないと思う。」って言っていた。「一緒にいるってことは、壊しちゃいけないってことじゃないと思う。」と言っていた。
 大切なことが終わった18日。昨日を尻目に、私たちは夕方を家へ帰ってゆく。
 弟が心を殺さずに生きていけるなら、私はそれを見届けるために何年生きてもいい。

2月15日 二面相
 
 ちょっとおかしくなっててすみませんでした。なおりました。これまでに経験したことのない痛さ寂しさ苦しさでした。生きてみるもんだな。
 雪が降り、あたたかくなり、春の匂いがして、夜、ものすごい雨が降っている。
 太い血管の血がけば立つ。火照るぜ。
 
 友達からコインロッカーベイビーズ(村上龍)とラッドウィンプスの新曲「狭心症」を貸してもらった。コインロッカーベイビーズ小学生の時に読んだけどね。
 借りる前からだいたい分かっていたけど両方ともあんま好きじゃない。コインロッカーベイビーズは文章ががつがつしててかっこいいとこもあるからラッドよりゃ好きだけど、まあラッドは音とリズムだけを楽しむものと割り切ればいいんだろう。でも私の好きな人が「あの歌詞いいよね!」って言ってると勝手ながらちょう嫌な気分。
 
 英検二級二次試験どーしよう、落ちたらちょうめんどくさい。そしてまたお金がかかる。受からなきゃ。本屋で二次試験対策本を立ち読みだ。そういえば友達に五百円返さないと。
 なんか今日、担任の先生(女性のほう)に睨まれた。なんでやろか。わかんない。本気で勉強するって言っちゃったから本気で勉強する。
 お父さんが電話でキレてて私にドッグフードくらえと言っていた。何が起きたんだよ。
 お父さんはやっぱ仕事なくなっちゃったんだろうか。近頃荒れている。

2月14日 人生は終わりで完結 細胞は日々

 よくわからない。
 私の周りは絶えず気味の悪い震動を響かせながらどこへ行くのかもわからないけども動いている。それは私の親とも兄弟とも、朝刊とも夕刊とも、学生ともフリーターとも関係なく、午後の紅茶もコーヒーも、関係なく、いつも動いていて、忘れようとしていたその震えを感じると私は熱っぽくなる。体が火照り、誰かを待っていたのとか騙されたこととか、忘れてしまう。食欲がないし寒気がする。脳が揺れてぼんやりする。休ませてくれない。
 私は止まっちゃ死んじゃうと思いながら走ろうと思う。だけど腕を掴まれて座らされ、カレーライスを食う。ああおかしいおかしいおかしい。おかしいんだけど、これを他人にどう説明する。
 私は、ここが、とても大きな廊下で隣と繋がれた、小さな部屋なのかもしれないなと思う。だからここでのことが上手く行かなくても、隣に行けば、走れるかもしれない。でも隣には行けない仕組みなんだと思う。まるで向こうは違う世界なんだ。もしそうだとしたら。
 私の夢の中で芥川が歩いているなんてことはそこまで不思議なことじゃない。ただ私は、夜も朝も変わらず走り続けている自分の夢を見る。走るということは震動を忘れないということだ。ランニングマシーンで白い光の中走るのとは違う。皇居も五稜郭も走る。そのうちに知らない所へ出て、私は走っている。それは不思議だ。目覚めて吐き気がするくらい。
 私は魚を飼うと殺したくなっちゃうんだ。とても愛しているんだけど。魚もまた、私を無理やりに座らせて、夜には勉強しろよと言ってくるから。私よりも弱いくせに。
 私にはこの世界とは違うすさまじい流れが見えて、走らなきゃと思うのに、なぜこうも邪魔が多い。そういう外の世界を想う時、私は体とか私としてじゃなく、魂として、でも、でもおかしいじゃないか。おかしいよ。私は人間なのだから、私は自分自身が変なお話になることはできない。そういう仕事があるなら向いているかもしれない。
 誰かに震えを止めてほしい。震えがすごすぎて、この世界中が音に見える。
 こんな切り離されてるのに、一番好きな人に電話することは、今でも助けてくれるように思うのです。私と一番好きな人は、何かが似てる気がして、けどこんな、電話できない。
 私はあの人を、死ぬほど愛しているんだけれど、頭脳が汚く乱れて火照ってる時に言うことじゃないから今は何も言わん。
 
 自分を、心を、もしそう言わないんだったら頭脳を、考え方を、視点を、柔軟性を、磨くべきだよ。そのままじゃ、今から考えることすべて、そのままなんだよ。
 私はもう二度と君が女の子に生れなければよかったと願いたくないし、でもあなた気付かないから、私はどうせ明日も思うんだ。そんなに勉強したのに、そんなに賢くて頭が切れるのに、そんなに体も美しいのに、どうしてそれを側溝に投げ捨てるの。そのうちに体も弛むよ。目の光りのまがいものも失せるよ。濁った眼でスパゲッティー食べてる未来の君に会いたくない。二度とおまえに心を分けてあげたくない。
 私は君を含む大勢の人の生みだした芸術やら言葉やら、食べ物の匂いやらのせいで二日前から気が変で、夢なのか現なのか、春の桜なのか秋の菊なのか、わからんです。もう本当に、眠れない。一体何を飲んだらいい。

2月13日 ベイビー僕はどこへ

 物心ついた時から恐ろしい夢を見ている。それで私は眠るのは好きでも、余り長く眠るのは好きでなかったりする。
 これがほんとに恐ろしい夢で、私の精神のどこかおかしい部分は全て、幼少期からそういう夢を見過ぎたために何かが変質して生まれ出たんじゃないかと思うほどである。その時の精神状態によって夢を見る頻度はかわってくるが、内容はだいたい同じようなもので、 簡単に言えば次のようである。

私が、どこか広い場所に立っている。
例えば、昔家族で花見をした公園の広場。観光客であふれる箱根の大涌谷。いつも遊んでいる公園。
私はそこでいつもの通り遊んだり、人と話をしたりしている。
と、世界がカツッと音を立ててスイッチする。
空が、人が、地面が、水が、全てが腐り始める。黒ずみ、異臭を放ち、どろどろして、そのまま私に近づいて来たり、ぼおっと立ちすくんでいたりする。もう何も分からなくなる。空も地面も、光も闇も、ただの泥沼のようになる。空気が軽く、粉末のようなものを私は吸い込み続ける。おびただしい音が聞こえる。私はわけのわからない、脈略の無い悲しみに襲われる。それはこれまでの悲しみも怒りも、喜びも、全部混ぜ込んだみたいな強烈な悲しみだ。
 
 小学生のとき戦争の写真集を見て、戦争ならこんな感じかもしれないと自分の夢を考えた。
 戦争の写真集は夢ほど恐怖ではなかった。たしかに内臓は飛び出てるし街は破壊され、川は向けてる人が死んでる犬も死んでる。川に何者かが死んでいる。だけどもそういう写真には、どこかに必ず光があるのだ。光の無い戦争、そんなものあるだろうか。火が燃えれば光。爆弾が落ちれば光。車が通れば光。フラッシュライト。
 私の夢には光がない。絶望もできない。底まで心も頭も付いて行かないまま、強烈な臭気と眼に染みる腐敗物がそれでも言葉をしゃべっている。どうも説明しきれないが、眼が覚めた時にはどこかにこれから養子にもらわれていく子供みたいに、割り切った空虚な気持だ。なのに体が震える。時計の音が聞こえる。怯え。無人の部屋に私は力尽き、転がり、微塵も動けないでいる。家族が隣の部屋で動いていても、私はそれさえ怖いのである。私は彼らが怖い。いやなにもかも。
 その夢に光があったらここまで怖くもなかったろう。
 いや、それもよくわからないか。
 小さい時怖い夢を見たと言って泣いた。首筋をなでる誰かの手の、生温かい血の流れが怖かった。どうしても眼を上げてそのひとの目を、顔を、皮膚を、見ることができなかった。風呂場にカビが生えるのを嫌った。カビの生えた扉を開けると、違う世界につながってしまうような気がするのだ。掴んでいる取っ手さえも暗闇に見えなくなるような扉が、どこかにあるような気がするのだ。私はそちらに葬られたら、忘れられてしまうのか。殺されてしまう。私はどこに行けばいいんだろう。どこにいればいいのか。どうすればいいんだろう。
こわい。
 私はおそらく殺されてしまう。そう思って柄にもなく遺す手紙を書いた。夢の話なのかちがうのか、よくわからない。だって、人生ずっと、悪い夢を見て息てるような気分なんだ。これが実際のほんとうなのかもしれない。他のことなんて何一つなくても、ああもうわからないや。熱くて気が狂いそう。

 
2月12日
 
 成○学園ふとっぱら。三千円くれた。
 近頃私は禁欲的だ。禁欲というより欲がない。よくない傾向。置物のようになる恐れ。
 参考書買う。それで勉強する。ご飯作る。風呂洗う。食べる。風呂。勉強する。母帰ってくる。勉強してないフリする。こそこそ勉強。お酒?そんなもん飲まないですよ。水です水。トイレ行って布団しいて寝る。あー、日記書くの忘れてる。
 よくない傾向。馬鹿になる傾向。体が弱くなる。頭も。
 しかし一縷の苦悶もない。
 世間の連休は13日まで。しかし私の連休は14日まで。
 遊びに来た女の子と一緒にプリン食べた。ああいう女の子ならいくらいたっていい。こういう一日なら何度あってもいい。ハニー
 どうでもいいところで不出来な女の子にはもう興味ないよ。

2月11日

 東京は雪が降っています。成城学園前の駅に上りましたが雪と雲のせいで富士山は見えませんでした。
 日本史講義実況中継の本の文化史のやつを、明日入試手伝いをするともらえる図書券で買います。休みの日の学校で働いて、みんなでご飯です。ほくほく。
 一切は穏やかに過ぎて行きます。かっこいい人たちが外国からまた新しく国際交流会館に引っ越してきました。私の住むアパートは国際交流会館の道を挟んで向かい側にあるので、そういう人たちと結構仲良くなることがります。
 ここしばらく、嫌な気持ちになることもなければ気分がよいこともありません。私にしてはなかなか珍しいことですが、妙に体調を崩します。先週だけで遅刻が三時間分も付きました。あーあ。
 一年前の冬に比べて、今私はいいわけすべきこともありませんし、つくべき嘘もありません。誠実であろうと思うわけではありませんが、別に悪いことはしていません。やるべきことは多岐にわたっていますが、それぞれはそんなに難しいことではありません。ただ時間がないということが私を夜明けまで眠らせずにいる。
 気付いたら部屋の床に書物が散乱し、服が脱ぎ捨ててあり、不思議な事にその服の半分は弟のものであるという状況です。まさか彼がここにきて脱ぎ捨てて行ったのでしょう。私が連れてきて脱がすわけないし。ちゃんと片付けました。
 私はたたんだ布団の上に座って骨壷のことを考える。どこかの寺で見た骨壷を思い出してはそのさわり心地について独り言を言う。
 
 日記に「ココアを飲んだ」とか書くのは嫌な感じだ。
 書き方にもよるけど、「ココアを飲んだ」とか、「コンビニで電話をかけた」とか書くのって情けない感じだ。
 「甘酒を飲んだ」とか「銭湯に行って寿司を食べた」とかは、良いと思う。
 いいとも悪いとも言えないのは「骨壷のことを思い出した」とかだ。
 意味もなく富士山を見に行った話はよくない。でもまあ許せる範囲だ。
 わたしは多分、「ココア」とか「コンビニ」とか「アパート」とか「リュック」などの言葉を使うのが嫌いだ。カタカナが全部だめというわけではなくて、「アパアト」とか「ホットチョコレート」とか「カバン」とかは好きだ。なんのこっちゃ、だが、嫌いな言葉を使うと一気に何も書く気が起きなくなったり、また人の文章にもそういう言葉が含まれていると一気に読む気が失せたり、なんかやる気がなくなったりする。
 そういう引き金になる言葉が、カタカナの言葉に多い。
 ひらがなの言葉や漢字の言葉は、その言葉自体というよりはその言葉にまつわる記憶やイメージを瞬時に引き出してくると思う。「まんじゅう」とか。
 わたしはどうも、「まんじゅう」とか書かれると、冷静に「まんじゅう」を言葉として読めない。「まんじゅう」は、「まんじゅう」という言葉ではなくて、まんじゅうだ。
 そういうわけで、その言葉にまつわる記憶やイメージが嫌なものであればその言葉が嫌いとか、その言葉を聴くとやる気が失せたり苛立ったりということは、ある。
 「今日なんでこんなに疲れたんだろう。あ、そうか、あの人が碁盤という言葉を連発したからだ。」とかいうこともたまにはある。私は碁盤には嫌な思い出しかないので。
 「ココア飲みたい。」というのが口癖の人とは、「ココス行きたい。」というのが口癖の人ほど仲良くなれないかもしれない。そんなことがあっていいものかと思われるかもしれないが私はそういう人間かもしれない。
 なにか今日の日記は(今日だけの話じゃないですね)不出来すぎます。申し訳ないです。それから更新が滞っておりすみません。この連休中に書きます。
 今日は建国記念日。神武天皇が即位した(紀元前660年)とされている日で、大日本帝国憲法が発布された日です(1889年)。楽しんでください。雪の日を。

2月10日
 
 江國香織がかわいいって書いたけど、あれは間違いでした。
 江國香織はかわいいというにはちょっと売れすぎてます。かわいいというにはちょっと私の友達を汚染しすぎています。
 かわいい女の子でも自分の親を殺した奴なら憎い。そういうのと、同じです。

2月9日 友達がいなくなるのはしょうがない?

 自分はそろそろ、同年代の子供たち誰にでも好かれるようにしようと言う心がけを捨てようと思っている。なんか達成したのでもうそろそろいいやという気になっている。
 どうも私も色々始めちゃったから、つまらないことについてつまらない言い方で突っかかって来る友達が増えてきてうんざりしてきた。
 それは誤解だと説明すると相手が怒るというパターンが多くて謝る気も失せてきた。別に私の言い方が悪いとか思わないんだけど。昔の担任の先生いわく、「疲れてる人と頭の悪い人にはそういう言い方で言っても伝わらないよ。」 
 
 私は先日別にそんなに親しくしていない友達Nと、他の友達について話をしていて、
 相手の子Nが、「ここだけの話、わたしあんまりAさんの事、好きじゃないのよね。」みたいなことを言った。私はAさんのことがけっこう好きで、でもたしかに一種の人種には受け入れられないところを持っている人だ、と思っていたので、一応、「えー、なんで?」と聞いてみた。「わたしああいう種類の人苦手なんだよね。例えば他にはKさんとか。」私はあまりにもNのの好き嫌いが典型的すぎて笑いそうになったが、堪えて、「あー、彼らはこの学校では珍しいタイプですよね。彼らを苦手とする人の気持ちは理解できる。」と言った。
 私はそういう時に、本当は「いや、でも私はAさんもKさんも好きですよ。」と言いたいんだが、一応昨日まではみんなに好かれこうという考え方だったので、そうは言えなかった。
 Nはもっと強く同意してほしかったようで、私のあいまいな言い方にじれったそうにしていたが、私はじれったそうにしているだけで言葉にしようともせず、また諦める気もなさそうなNにちょっとイライラしていて、何も言わなかった。
 
 昨日学校に行くとNが私の近くに寄ってきて、「工藤さんもAの事が苦手なんでしょ?」と他の友達の居る前で私に聞いてきた。私は「は?」と思ったが「えー、なんで?私はそんなこと思わんが。」と答えた。すると彼女はなんの悪気もなさそうな顔で「だってきのう気持ちわかるって言ってたじゃん。」と私に迫ってくるのだ。その時私は思った。「女女女女女女女女女女女女女女女女女女女女!!!!!!!!!」
「あのねー、私は気持ちわかるって言ったんじゃなくて、気持ちはわかるって言ったよー。そういう意味じゃないのー。」
 Nにはその違いがわからないようであった。
 まあ私も言い方が悪かった。というか私が悪かった。というか私が何も言わないか、本当に言いたいと思ったことを言えば良かった。と思って、今度こそ「私はAのこと好きだよ。ちなみに言えばKも。でも非常に個性的だからNさんが苦手と思うのも仕方ないんじゃないかな。」と言ったら、
「嫌いって言ったじゃん!」と言ってくる。私はさすがに「これはないね。ひどいね。」と思ったがNは彼女が所属するグループの中では弱者なので他のメンバーに嘘付いたと思われたら仲間外れにされるとか思って必死なのだ。その辺については小学生のグループとなんら変わらない。
 私はしょうがないから、あんまり強烈すぎるから朝からお話ししたくないAを連れてきて、Aがいかに素晴らしい人か、しかしどういう受け入れられにくい部分を持っているか、Nに朝っぱらから説明しなければならなかった。ここでAを抜きで話していると、受け入れられにくい部分を説明しているだけなのに、いつのまにかそれが聴いている女の子たちの中で「工藤さんがAさんを嫌いな理由」として語り継がれていってしまう恐れがある。めんどくさいのだ。
 Nのグループの女の子は興ざめして散って行ったが、Nは私を睨み、Aは「なんなのもう。」と言って照れていた。しかしそれも「なんなのもう。」ではすまず、「なんなのもうなんなのもう、てれるなあ、もー、どうしたのー、朝からどうしたのー?」って言いながら私をバンバン叩くので、余りにも強烈過ぎて私はAを好きだけど疲れた。それに私も恥ずかしかった。
 Nの気持ちは分からんでもない。というかNはそうなるだろうな、と思う。これはNに対しても、グループに対しても。
 私は友達で作るグループというものがこのごろ大嫌いだ。だいたい私たちは成長しているはずなのに、友達同士で作るグループの決まりや、窮屈さや、お互いの距離の置き方の下手さというのが小学校でのそれと全く変わらない。きもい。
 グループが嫌いなので私はみんなとまんべんなく仲良くしてきたのだが、どーも、みんなと仲良くすると言うことは複数の顔を持つことになりやすく、自分の意見をはっきり言わないということにもつながる。
 グループを作らない人間は、学校でどうするかというと、私みたいにみんなと仲良くするか、一人でいるか、誰か一人と仲良くするか、しかない。たぶん。
 ぶっちゃけ私はどれでもいい。と思っていたが、もうみんなと仲良くするのは後回しにして、自分の意見をはっきり言おうと思う。そのほうが面倒じゃないし、そのほうが今の自分のあり方にぴったりだとおもう。
 めんどいな、こんな小さな世界のために。
 言葉が足りないと言うことが、自分にはしょっちゅうあるんだと思う。もっとばんばん言葉を使って、自分の本当に思っているところを伝えるようにしよう。 
 ま、そのせいで友達がいなくなるのはしょうがないんだろう。一人にはならないだろうと思ってるが、一人になっても仕方ない。

2月8日 
 
 新しい世界に行ってぶりっこしたい。きゃは☆

2月7日 パラレルワールド2011
 
 「先生?私、お弁当作ってみましたの。よろしかったら…食べていただけるかしら。(上目遣い)」
 って、師匠に仕掛けたい。うん。いま一番やりたいことです。うん。職場に押しかけてね。うん。やりたくてたまんないね!ははは。
 今日チョコレートを売っていて、もほもほのマフラーの女の子(中学生くらい)が「これ、ください」って鞄に中にある財布を探しながらちょっと目をあげて上ずった声で隣のレジの人に話しかけてて、「うおー!」って、「上目遣いってやばい!」って思って、家に帰ってご飯作って食べてパニックフェイスを弟の横で見て、お前じゃージ脱げとか弟に注意して、お前が長電話をし過ぎるので電話代がすごい、とかも言ってやって、うるせーなーと言われ、風呂を洗い、宇多田ヒカルを聴き、「君にアディクトかも!」とかやって、インクが切れちゃったから探し回ったZEBURAのラバー80っていうボールペンを出してちょちょいと勉強するつもり。
 
 私はかわいい女の子が写っている写真が好きである。
 変態くさい意味ではないのです。見た目がかわいい系的にかわいい女の子の多くは、自分がどの角度でどういうふうに振舞ったらよりかわいく見えるかをしっかり把握しているのね。それを見るのです。時々は「あー、私でも出来るな。」とかうぬぼれるのです。なんちてー。
 かわいいのとかっこいいのを上手く混ぜてほんとに上手に混ぜている感じの女の子はなかなかいない。まああやちゃんくらいなもんかねえ(あやちゃんは私の×××です)。そーゆー女の子は騙されて利用されちゃうような愚かちゃんには怖いだけなんだろうが、別に、そうすると楽しくて、好きで、いいかんじだからそういうふうに振舞ってるんだと理解できる人なら、ほんといい子、かわいい子、て思えるだろう。とか言って私も色々伝え切れていないかもだけどね。
 パラレルワールドの2月7日はこういう日だったよ。私は日替わりで世界を行ったり来たりしたい。愛し愛されてることは大事なことだ。

2月6日 どうだ明るくなったろう
 
 どうやら春が来たらしい。
 今日はハンバーグ定食を食べた。苺キャラメルとフライドチキンも食した。
 とても寝不足だと体感温度のことと咲いていた花のことと食べたものについてしか今日のことを思い出せない。よく寝ましょう。…でも私は数学をやらないと留年するんです。ま、そんな深刻でもないが。それとはまったく別の理由で夜更かししているんだが。
 正倉院展いきたいな。
 何か最近、自分だけのためにお金を使うのが嫌になっている。嫌になるほど使ったというわけではない。自分の勉強のためなら良いが、一人で店に入って何か食べようと思うたびに、「あー、それよりあの人とあそこに行きたいな。」と思ったりする。で、やめる。
 でも決してお金がたまるってわけではない。人に会うたびに「ここが使いどころじゃ!」ってなふうに、使ってしまうんで。無意識に本を買っていたりね。
 あと、娯楽だけに時間を使うのが不得意になった。たとえばコンビニに行ってエッチなほんを見るのに時間を使うのがうんざりしてきた。この変化を私は喜ばしいことだとは思っていない。くるりのテンションにならないでそれなりに熱を持って楽しめるんなら娯楽だけを楽しむ時間はとてもいい時間だ。ただ私はそういう時間を腐らせてもたれかかって、楽しいだけで死んじゃったようなひとを大勢見て、さらに今も地獄に向かって加速し続けてるような人を見て、救いきれないと思い、「出家しろヨもう…」とか思いながら、もう今に自分もそういうふうになるんじゃないかと恐れるあまりいつも忙しく、正しい挑戦をしないでは気が済まなくなってきて、心がぱさぱさっていう状態なのかもしれない。これは。
 私の家族にも一人、ジャンプ漫画とゲームばっかりしてたまに恐ろしいドラマとかみるばっかりのがいるのです。まったくどうなるのか。
 て、いうほど私は心配しちゃいないんです。そろそろ心配して恐れておろおろするのは忘れちゃったんです。図太く鈍感になってきたんです。きっとこうやっておばさんやおばちゃんになるんだろうなあ。沈み込んで年老いたくないなあ。ぐいっと上りつつ年老いたい。時代を変えたいかもしれない。あまりにも漠然としているが。
 にゃんか私は体育会系精神みたいなものに侵されてきている。私としてはあまり嬉しくない。が、そうしないと生きていけないような気がしてね。母もそんなようなことを言っていた。
 野菜が高過ぎ。どうかしてる。
 あーそういえば英検の一次試験受かってた。
 三月になったら、野田秀樹の「南へ」(演劇)にはにーが誘ってくれたから行ってくる。チケット高かったんだからちゃんと来てよ、とのこと。行ってくる。わくわくである。
 もしほんとにかちこちの暮らしをしていても、楽しく振舞えればそれでいいのかもしれない。精神的に向上心、ダ!Kも言ってた。「こころ」と「それから」
 若さって恥ずかしい嬉しい。
 誰も私に嫌われまいと思って、という理由で自分を変えてはいけないよ。私もまだ何もわかってないのです。生きてきたので死なないのです。
2月5日 変
 
 こなだまで入院してた人が学校に来ました。なんかちょー痛そうな事になってました。お大事に。 母が今日仕事やすんだ。なんかダウンとか言ってる。
 
 冗談じゃなく言うのですが、私以外の人がみんな楽しそう。言っておくが自分がだめな人間の世界にいまにも落ちそうということには気付いているし、恐れている。それにぜったい落ちるまいとおもっている。だが年寄りの愚痴みたいにぼとぼとと口から落ちそうになることは、がっこーはヤケにおもしろおかしいし、裁判というやつは、これまた笑える問答で、ただ私には時間がないのだ。これだけの面白可笑しさを綺麗にするだけの、余裕がありませんのです。
 道を下りて、神社に入る。
 もうっと熱が腰かけた膝から頭の先まで駆け上がるようになる。それほどに私はむしゃくしゃとして考える。
 海か
 と私は思う。やはり海に行きたいのだ私は。ひとりがいい。時間があれば。自由があれば。ポイントからポイントに移動するだけで一日が終わる。
 赤いシューズの少女が新百合ヶ丘の駅ビルの店で赤いカチューシャを握りしめてうずくまっているのを見たからケーキを食べさせて、それから数十分私は一人で電車に乗り込んだ。
 歌も漫画も本もつまらない。今日ただ一曲聴き続けられた歌は、自分の手で掴まなくちゃだめだと言っていた。
 夜七時にデミグラスソースを買いに家を出て、身を切る風の匂いは春だった。
 髪の量へったねー、って気付かれた。なんか抜けるんだけど。やばいねこれは。他人が分かるってそろそろやばいな。明らかに生え際後退してるしね。でも剥げる前にスキンヘッドにすると決めているので。色んなカツラかぶれるじゃん。やー、洒落になんないや。息を吹き返せっ!
 ラッドウィンプスの新曲のよさが微塵も分からなくなっているわたしはちょっと今それと関係あるのかは知らないけど、髪の毛などがピンチです。はっはっは。そんな馬鹿な。あはは。こんなことあるかいな。あっていいのかこんなこと。生き急いでしまったか…

2月4日 いやんなるよもう

 夢で芥川龍之介を見た。何でもない人みたいに歩いていた。バス通り。
 静かな駐車場で私は缶のココアを飲み続けた。いつまでたっても減らないココアだと思いながら。
 左腕を失っていた。最初からそこには何もついていなかったかのように夜の光に白くてかっていた。
 いまさらながら川沿いの道がものすごい臭くて、子供がとろけながら川に飛び込んで白い煙になって昇天して行くのだった。星が死による、とおじいさんが首を伸ばしてボンネットに映る川を覗き込んで、力の無い目で私を見た。自分のボロい袴の裾をいじりながら「河童だよ」と答えた。死ぬのはほしじゃなくて河童だよ。おじいさんは車を殴りつけて壊し始めた。面白いくらいに壊れるので月も雲も落ちてきた。どっかのミュージシャンもやってきてエレキで車を壊した。 あほだ。
 眉間にしわが寄る。小学校の同級生の大井さんのお母さん(常に眉間にしわが寄っている)を思い出して不愉快になった。思い出したくない時代だ。
 目覚めて芥川龍之介の写真をアイポッドに入れた。いけめんだ。風邪ひきました。
 うーん、箱庭もいいんじゃないかと思う出来事がありました。
 大学そろそろ卒業の人は就職活動を始めてください。親だって死ぬ時は死にます。
 ところでずっと私のことを避けていたA子がいきなり私にべたべたしてきて死にたいです。なめた目でべたべたするくらいなら無視されてた方がまだましです。やっぱりひどい女です。ていうか彼氏にかまってもらえないと純正の女というのはあそこまですごまじい崩れ方をするものか。うえ。学校行きたくないです。ひとの策略が見えると言うのはアレルギーみたいなもんです。
 昼過ぎ誰かが訪ねてきて柿を買ってきたんですと言った。私が、この季節だ、ずいぶん高い金を払わされたろうというような意味のことを言ったら、その子は「何を言ってるんです先生は。」と言って笑った。部屋にはすでに誰かがいて、そいつにお茶を入れさせてナイフで柿を剥き、三人で黙々と柿を食った。私は二人が帰るのを引きとめはしなかった。
 二人が帰ってからは脱力していた。遠くなっていくものに涙をこらえきれない。センシティブな部分は放棄しようか。烏声のシンデレラ姫、みたいになろうかなあ。ううむ。「こんなに見事に変身できる女も珍しい。」と言われたりして(太宰治「グッド・バイ」の絹子)。イヤー…しかしな(笑)
 おとうとが父と遊ぶたびに高価なものを買ってもらってくる。それをおとうとが母に見せる時のわたしのぞっとする気持ち。そのせいでそのせいでそのせいでそのせいで、わたしはやだなあもう、いまはただ、まあどういう気持ちか、わかってくれなくても結構です。
 つーか分かってくれなくても結構ですってことを日記に書くなって話ですよね。分かってくれるな、と思ってることをわざと会話にちらつかせてみたりするかっこつけってたまにいますが、ちらつかせかたに品がなければぜんぜんかっこついてないんですよ。「つかれたー」っていったら相手が疲れを取ってくれるような時代や相手がやってきたら「つかれたー」って他人に言う意味もあるけど、「つかれたー」っていってもそっからの会話がだるい空気に包まれるだけなら、そんなこと望んでないなら言わないほうがいい。それが可愛いと思ってるんなら別に止めないけど。
 わかってほしいことと、わかってほしくないことと、分別する必要があるって、思う。
 どっちでもない、っていう枠はできるだけ作らないようにしたい。掃除してる時に「すてるもの」「どっちともいえないもの」「すてないもの」っていう袋を作ったら、「どっちともいえないもの」の袋にけっこうわんさかものが溜まっちゃったりして、しかも「捨てるの!?捨てないの!?」って感じじゃないですか。その袋を作った意味ってなに。甘え的なね。
 やるのかやらないのか、すてるのかすてないのか、っていうふうに分けることがやろうとおもってもできない人は多いと思う。生きるのか、死ぬのか、うーん、どっちともいえない、って生きてる人、働くのか、遊ぶのか、うーん、どっちともいえない、って生きてる人。生ぬるい。
 しかもなんでどっちでもないの、って聞いてみても上手く答えられない人がいる。甘えでしょ、的な。
 いらねーな、んな甘えて生きてる感じ。
 私は甘えないようにしようと思う。今日は面白いことを思いつかなかったので夢の話とか書いてしまいました。甘えました。もうしません。 一人でやるしかないんだからな。孤独ではないけど一人です。

夜半

まっすぐに息を詰めて
来ないか今かと
それからを手繰る
祈る思いで
台所で古い歌を歌う初めての母親に
僕の心は鋭く震える
遠い結婚を予感する
私が母親だと思う人に子供の母親になってほしい

偉そうな僕にはあきれるでしょう
いろいろ使っておきながら
なんども死のうといたして
男の心も女の平素もわからず
生きていて
こんなところに言葉を置いてごめんな
女の悪い癖で色々名乗ってみたのだけれど
電線からくらりくらりと落ちてくる光線のせいで
この脳はすっかり言うべき言葉を
落とした
あなたは仲間であったのに
今はずいぶん冷たくすましている

こんな
煙草をふかしたいような布団際で
酒よりも睡眠よりも煙という時は
まあ散歩でしょうな
夜だろうが
畑におどろが住んでよが
散歩の帰りに魚を闇討ちにして
遠い結婚の日
包丁の音と静かな歌と朝の布団を
大事にしながら夜道を帰ろう


いまはそれしか希望がない
誰もが逃げてしまう
時はいつか目覚めると思う
よって明日までとりあえず生きる
いつか言う
結婚しよう
について考えながら
夜道を帰る
いつかの子供などに話しかけながら
温かい血が田んぼに、畦に、漆黒の空にも流れている
朝の風が一縷吹く
まだ闇の中から
ああ僕はあなたを
あなたを越えていこうと今強く思う
最後つかみ取る瞬間のために
あなたはあまりに弱すぎる

箱庭日記も箱庭人生ももううんざりだ。ただの女の子でいてはいけない。ただの学生でいる意味なんてくだらぬ。私は女のこの日記を読むと嫌になっちゃうときがあるんだが、もうそれは、私がぽいしてきたもんだからだと思う。どうもやっぱり女の子というやつは、箱庭の中が大好きなんだぜ。
私は箱庭をはるか上空から見たい。今は外から箱庭の城壁を見ている。満足できない。もっといろいろあるはずだ。
というわけでもはや向上心なんてどこからもわいてくる気がしないのに、目指している。彼でもなく彼女でもなくあの人でもない、もっと完璧な高ささ。かのじょ。

2月3日 田んぼ
 
 たんぼは緑か茶だと思ってたが、朝などは灰色ですなあ。
 夕暮れ時はオレンジです。
 靄が立ち込めます。
 道も隠れる。朝靄豚が出てくる人が出てくる
 
 学校の自習時間の終わりにこの写真集をぺらぺらしていた。
 私はたんぼをしっかり見たことがない。
 新幹線の窓から見たことがある程度。
 写真集は楽しいです。旅行気分です。自分で写真を上手くとろうという気は全く起きないのですが、写真うまくとれる人ってかっこいいと思う。
 
 あー、なんか非常に打ち明けにくいことなのですが、というか自分でも困惑しているのですが、菅野美穂のヌード写真集が私のクローゼットの中にあるんですよね。なんでか知ってます?私は全く分かりません。夢遊病かねえ。
 
 男の子と、
 どういう時なら殴られても気持ちがいいか、っていうことを話していまして、むかーしむかしに中島敦の「プウルの傍で」とかいう作品を読んだことを話したりして、(青空文庫からリンク貼ろうと思ったのに公開されてない。たぶん中島敦全集3に収録されているはず。)その「プウルの傍で」に、主人公三造が父親に殴られまくるシーンがあるのだが、このシーンの前後にある、妹や両親に対しての三造の考えというか、思いというのは、けっこう分かるなあ、という話になって、で、なんで彼がその作品を知っていたかというと河合塾のマーク式基礎問題集18現代文という本にちょうどそのあたりが切り抜かれて載っているらしいんです。で、彼はそれを解いているらしい。
 偶然自分が話に出した作品を相手も知っていると嬉しいです。特に私はあらすじを説明するのは好きじゃないので(こういうところがけしからん)知っててくれると喜びます。とても。
 目の前で誰が殴られてたら一番つらいか、という質問には、彼は分かんないと言っていた。私はお母さんだと思う。別に他の人と比べて母を特別愛してるかときかれると、分かんないけど、でもそうなんです。やっぱお母さんっていうのは、ちょっと違うんだろうな。
 口んなか血の味する。神経衰弱に堕ちないように一本糸で天井からつられておる。

2月2日 これなーんだ
 
 いざ、立ちてゆかん。娑婆界しゃばかいを隔つる谷へ。
 岩むらはこごしく、やま水は清く、
 薬草の花はにおえる谷へ。
 
 「それはトックの遺言状ゆいごんじょうですか?」
 「いや、最後に書いていた詩です。」
 「詩?」
 
 なんかもうね、本だけ読んでいたいですわ。ここのところちょっとめげているのです。ただお母さんが嘆くから、それが母親としての嘆きでなかったら、私は別に、どこかの女のたわごとと聞き流すのですが、彼女はそのとき私と弟の母親として嘆いているから頭が上がらない。だが私と弟、どちらも悪いことをしでかしたわけではない。驚くべき損失に少々気がそがれただけなのだ。そのせいで毎日、気孔のように生きて食べて、どんなことにも我慢しているだけなんです。親というのは、ほんとに子供の心を知らないものだよね。はっはっは。
 
 お風呂に入って参考書読んでると、読み進むから毎晩ちょっとずつ読み返すページが増えてって、昨日あたりからやってるうちに頭ががんがんしてきます。余計なこと考えないからちょっといい感じかもしれない。お風呂に一人で入って考えることなんてのはだいたい命を縮めるだけのワイワイ話なんでね。ワイワイってなんだろね。
 男の子と女の子てどっちがお風呂に長くつかっていられるんだろう。血圧の問題とかあるのかな。
 つうか日本史楽しいな!
 困ったことに今朝、自宅の階段でこけた際に右手人差し指をかなりぐっきり突き指したのでペンが握れない。それと、暗記するときに使う裏紙のストックが切れた。チラシの裏紙とかあったら工藤にください。
 私はいまだに英語の参考書(文法の)どれつかおっかなとか、とろとろ考えています。だりいな英語。始めれば楽しいんだろうけど。
 参考書買うと喫茶店入りたくなっちゃう。走りたくなっちゃう。バスに乗りたくなっちゃう。坂道転げていきたくなっちゃう。そこのビルの屋上でハンバーガー食べちゃくなっちゃう。ワー
 参考書買っただけで勉強した気になってしまう人の気持ちが分からん。これからがたのしいとこ。なんちてな。
 
 私はあれだ、行間、というものを修行しようと思う。なんでみんな出来るんだ。ブログで日記書いてる人とか、時々「なるほっどお」っていう行間の使い方する人いるよな。私もやりたい。

私はもう、才能とか狂気とかいう言葉には、あきたのです。
あと金は、もういい。

2月1日 他人
 
 他人と自分は違っていて、他人には事情というものが必ずあるということを、常に考えて育つと、たまに苦労することもある。
 私は感情に作用される部分が少ない代わりに、柔軟性はそこそこある、と自分で思っている。いくつもの世界に同時に真逆に近い性格の人間として自分を置くことができる。
 私が暮らしにくい場所っていうのがいくつかあって、その一つは、やたら私の意見を求めてくる人がいるところ。そしてその人が割と頭がよくて、私が誰かの意見をそのままコピーペーストしてるのに気付いてしまうという場合。これはかなりまずくて、私は私の意見や考えというものがいくつも分散していて、それらはてんで逆の方向に突っ走っている場合もあって、そこから言葉に出して伝えることを選ぶ前に、そうも思えるけど、こうも思える。こっちだとこういう人は困って、あっちだとあれが上手くいかないから…などと自分の中でフォローの掛け合いが始まって、なんというか、考えを伝える、ということは、きっと表面に見せている性格だとか、声質からのイメージだとか、喋り方や喜び方なんかからのイメージを伝えるのとはもっと別で、いくつも顔を持ってたとしても、その全ての根底にあるものを伝えることなんだなと思う。そこが、「思ったこと」を伝えるのとは違うんだろうな。「思ったこと」なんてのはいくらでも演技できるわけだから。考えを聞き出すということは、何かに対してその人が思うことを聞き出すより、ずっとその人を深く知ることになるのかもしれん。だからそういうこと聞かれると戸惑ったり、嫌がったりする人もいる。ということかもしれない。
 私もそういうことを聞かれると嫌がる人で、どうにかして「思ったこと」に答えを置き換えて答えようとする。考えを聞きたい人にとっては苛立たしいことだと思うが、こればかりは、もっと仲良くなったらね、という感じだ。こういう置き換えを無意識のうちにしてしまっている人も多いだろう。
 小さいころから、誰もが自分の真似をしているように見える。
 私が少し前に考えたことを誰かが考えていて、自分が少し前に感じて泣きたくなったことを誰かが感じて泣いている。私が昔書こうと思ってやめたようなことを昨日誰かが書いていて、私がはるか昔に悩んだことを、先輩が悩んでいる。
 別に私が他より高等な人間だとか、考えが早いとか言ってるわけではない。私はただ、参考書をいくつも並行して解くみたいに、色んなこと同時に知り、六本の手を伸ばしてそれぞれ違うものを手に入れるようにざわざわと考え、六人の自分が同時に育つようにして色々を感じて、だいたいそんだけ感じてればその辺にいる人間が感じたことはとっくに自分の中の自分が経験してることってわけにもなるわ、ってわけで、そういうのをたまに人は感受性豊かとか言うんだろうが、それなりに嫌なこともあるで。
 中学生の初めごろは、みんなに「まだそんなこと考えてんの?」とか、「んなこと議論しなくても自分の中で議論して決めればいいじゃないか時間もかかるし。」とか思って嫌になったり、してたものだ。ホントはみんな、そんなこと分かってるのに分からないふりしてわざと交流しようとしてるのか、とか。最近になって分かってきた。なんかみんなは自分の中に自分が一人とか二人とか、それくらいしか住んでいないらしい、と。
 たまに、自分の骨格だけで出歩いているような午後がある。だいたいが昼まで寝てしまった日の午後。昨日までのいかなる愛も、いかなる言葉も、ホームページに書いたどんなこととも切り離されて、空っぽになっている午後。そういう時にはガムとか、食べ物を買いに行くのが癖だ。そしてそれを食べながら、裸足でブランコをこいだり、ただ寝てたり、色んなだめな人間を思い出して、考えなおしたりしている。その時は自分は一人しかいなくて、どこか自己中心的で勝手な考えが生まれる。そしてこんなこと、昔誰かが言ってたなあ、と思う。
 にょきにょき地面から生えてる木を見て、なんだろうこの卑猥さは、とか思って、幹が地面に刺さってるところを見て、「うえ、エロいぜ」とか思って、そしてこのエロさを、空に張り巡らされた無数の細かい枝が邪魔してるということにいら立ち、なーんかそういうどうにもならん馬鹿らしいことを思って、幹の分かれ目を見て気持ち悪くなって嘔吐したりして、まあこういう感受性の豊かさもアリだとか思いつつ、当然こんなん続けてちゃ生きて行かれんとか思っているといつもの自分に戻る。
 とにかくいつもは色んな人のこと考えている。いろんな意見や事情を考えている。いろんな世界での身の振りかたを考えている。もし私のは母親が父ではない人を好きになって浮気して私と弟を捨てて行ったことが過去にあったとして、別にそれを小学生の頃の私は怒らなかったであろうことは言うまでもない。もし弟だけを連れて父が私を捨てたとしても、私がそれに対して怒らなかったであろうことは言うまでもない。そして誰も私に食事をくれず飢え死にしそうになったところで窓に向かって椅子を投げてガラスを割って、それに気づいた警官に保護されたところで、恨み事一つ言わなかったであろうことは、言うまでもない。誰にでも事情があり、こうなってしまったことは、しかたなかったんだから。
 まあ、なんといいますか、こういう生き方をしてると、まさかの奇跡でうまく行った時以外はだいたいが世間から見れば「かわいそう」とか「損してる」というような人生になります。なんか信じる気持ちというのも、なくしてしまうしね。そしてたぶん奇跡を起こすにはそうとう優しいながらも頭がよくなくっちゃ駄目だと思います。自分をしっかり持つことも、時には大事だよ。なんちてな。

 
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