海を見てフラワーロードを通り、川を見た。とても楽しかった。
12月18日
ベランダから飛びたくて仕方ない。死にたいという意味ではない。新宿のほうまで見える景色が今日だけとてもきれいだ。
蒲団をたたんでいる間ずっと頭の中で電車が頭上を通り過ぎる音が響いていた。そういう日常。死んだような生き返るような日常。昼過ぎに起きて何かやり遂げる様な失うような日常。こんな文章、誰かが好み、誰かが嫌うような文章。断定はできない感情。断言できない未来。ただ精一杯の毎日。喜びで悲しみで未来で過去で、いつかキャパが言ったことを河原で思い出す。
誰もいない家は風の通る道。いつか誰かが言ったことが、全ての平面に張り付いてアイスクリームの溶けたのをなめている。
さよなら荒んだ気持ち。
全ての歴を私は捨てて好きなように生きていくさ。さようなら、崩れそうな慰められない気持ち。何回死にかけても捨てられなかった自虐的な気持ち。さよならさよなら。私は見たことをそのまま愛してとっておく。無駄遣いは良くないよ。何事も、時間も、体も。
12月17日
自分で言うのもくすぐったいが、結局私は理屈より感性、直感の人なので毎日日記を書くのは難しいな。理屈で考えれば普通に木っ端みじんなこと書こうとかするし。昨日考えたことは今日つまらないし。
誰かの真似するのが好き。文章を書く時でいえば太宰とかの真似が好き。好きって言うか、そうなってしまうんだよね。読むと。
最近私の詩が狂ってんのか整ってんのか乱れてんのか繋がってんのか分かんないくらいに変わってきたのは一緒に書いてくれているnickさんと谷さん(コクサンと読む)の影響なんだけども、やはり気に入って読んでるものや毎日見ているものや「おお!」と思ったものに、瞬間すごく自分も近づく。
そうするとたとえばいま「いいなあっ!」と私が思っているものを書いている人には褒めてもらったりするんだけど、それは近づくと同時にこないだまで愛してやまなかったものから離れていくということでもあって、しかしまあ、こないだまで愛していたものは愛した時間とかその他いろいろの分いま好きなものより愛していて、たぶんこれからもずっと好きだろうと思う。そういうものから離れていくこともいまは耐えられなく切なくて、染まるにしても戻れるところまでにしよう、とかって、ちょっと全力じゃない。行っちゃって戻ってくる自信がないからな。
でも最近軸が奪われることにも慣れてきて、ここらへんまでだったら戻れるんだな、っていうのが分かってきたから前みたいにつっこみすぎて迷惑掛けることにはあんまりならないだろう。つっこむのは痺れるけどね。楽しいんだけどね。
12月16日
ある本を読んでいるんですが、一行一行本当に面白いのですが、これを読んでいるとこないだまで悪しきものだと言い聞かせて自分から追い出した強さや気持や寂しさがまた戻ってきてしまう気がして、改めて私は読んだ本と師匠には影響されやすい人間だとわかりました。
これは少し加減しないと、そのうちに変な宗教にはまりこむのがオチです。困るなあ。
しかし面白い本は山ほどあるのだな。私はやっぱり本が好きですな。もし可能なら風呂に入るのを週に二回にして、机を売り払い、一汁一菜の生活を厳守し、川で洗濯をし、鉛筆をなめ何か考えては書き、本を読んでは水を飲んで、木を愛でては人を探して生きていきたいとか思ってしまった。あら…なんか文体が…。
12月15日 練馬区
練馬区で、私が通ったことのある部分がとても好きだ。練馬区にある食事屋が好きだ。八百屋が好きだ。公園が好きだ。静かな寺の横を通り抜けて行く道が好きだ。坂道も平たい道も好きだ。地面の上を走っているというのをちゃんと感じられる。
世田谷区は、あんまり好きではない。杉並区も。人が建物やネオンや地面に食われている気がする。
それにあまりにも、辛い思い出が多い。私の暗い痛い思い出は、ほとんどすべて、世田谷区と杉並区のあたりのことだ。
僕ァ、もう、世田谷区や杉並区に住んで行くことに限界を感じ始めている。まったくひどいことだ。
私は東京に住んでいるということは割とどうでもいいのだ。東京について何でも知っているわけではないし。新宿や池袋に出た時に、「ここは東京だったんだな」と、はっとするくらいにいつもは何んとなくしか東京というくくりを感じていない。私が住んでいるところは東京というよりは世田谷区。つまんねー世田谷区。くだらねえ世田谷区。ここじゃ、暗い思い出が痛いよ。
しかし世田谷区にお母さんが住んでいるので、今日も身の細る思いで、人が怖い道を、ネオンに巻き殺されながら練馬区から、世田谷区へ帰ってきました。南無阿弥陀仏。こんな街でしにたくねえ。
私は、私をかき消すような街の作りが嫌いだ。そういうわけで、自然を愛す。
言ってる先からへたくそなトランペットが公園から聞こえてきます夜の九時半。救急車のサイレンの音が左眼球に響く。もう冬をやめてくれないだろうか。ほんと、人間や人間のいる風景が美しかった時代は、どこへ行ったんだろう。
二度と戻れない日を生きてもいいんだよ。
むしろ戻れないように生きていきたい。やり直しは戻ることではなく進むことであるよ。
二度と戻れない日を生きていること。それを踏みしめていきたいもんだ。今日のからっぽな返事の一つ一つを塗りつぶして、明日にはもっといい言葉を使いたい。
僕は死ぬ。時を放って僕は死ぬ。
海へ行く。
しかし、「海へ行く」って言うのは、なんて青臭い言葉なんだろう。あはは。
12月14日
クリスマスパーティーに招いていただき、にやにやしながら自転車を漕いで行ってきました。梅ヶ丘です。
梅ヶ丘は小田急線でいけます。私が前に住んでいた松原というところのとても近くです。
ものすごい御馳走をいただきました。今年のクリスマスはもうこれでいいです。休みの日に友達の家に行くのは楽しい。
とても楽しかった。ありがとう。
12月13日
クリスマスの夜にお母さんが食事に行くって言ってたのに行かないことになったとか突然言うから私の予定がぐちゃぐちゃだ。
お母さんに見つからないように赤坂のイルミネーション見に行こうと思っていたのに。
デート(単に男と女が二人で出かけることをデートと呼ぶ場合のデート。)が潰れた。(つーか書いていて思ったんだけどやっぱり男と女が二人で出掛けるだけでデートって言うのはおかしいと思うぞ。)
今週の土日は弟が父方の祖父母の家に行くらしい。わたくしはどうも、あの家では完璧な人間だと思われているらしくて気が滅入る。私は東大志望ではない。
テレビで今年を振り返る的な、芸能人が喋っているだけの番組を弟が見ていて、自分なりにこの一年を振り返ろうとして、ことごとく言葉にならないと思い、挫折した。
なんかこの一年は、一気に正しさに近づいたような、戻れないほど間違ったような、生きている意味を見つけたような、死にたさが増しただけのような、そういう一年でした。全部だと思う。そういう感じだから、僕はほんとに疲れたよ。ただ、疲れないことが幸せとは限らないだろう?むしろ疲れないで幸せが得られるかね。
ああ、でも、僕はちょっとだめだな。もうやだな。あの男!ウマが合わないのに、二人で全く同じことに感動しているっていうのが、もう殺したいくらいに苦しくて、何時だって間違ってるのは僕のほうだよ。僕、男の子になって最後は死にたい。
とか言ってる場合でもないので、みなさん、詩のコーナーもよろしく。三人でやってます。左上の「詩」のところから飛べます。
12月12日
評論文(春休み?の宿題)が帰ってきたよ。『現代の消費社会』という文章です。
『工藤さん 大人の文章である。人間の欲望の哲学的考察から始まり、欲望は欲望を生み、それが独裁者や教祖を生み出すという社会システムまで一気に論じている。今は亡き思想家の今村仁司の議論に近い。劇作家野田秀樹の最新作「キャラクター」は、そうした教祖の出現とそれを生み出す集団心理を鋭く突いていた。』
ってコメントが張りつけてあった。なんか、野田秀樹のは「ザ・キャラクター」じゃないのか。
大人の文章かどうかは別として、最近ここまで学校の先生でちゃんとコメントを書いてくれる人がいなかったので素直に嬉しい。その先生に今日「数学、三学期授業や済んだらもう一回二年生だからね、分かってるんでしょうね。」と言われたというね。あは。数学3点だからね私は。英語演習や国語演習との差が100点以上、というね。いまさら勉強しなかったからとかそういうみにくいこと言わないけど。
それはともかく、文章に関してはまだ読み返していないので何を書いたか全く思い出せないのだが、…哲学的考察てなんだ。春休みの私にそんなことができたわけないと思うんだが。いまも出来ないぜ。
私はなんだか、このころから教祖のこととか考えていたんだな。どうしようもないねもう。教祖君に片思いしてる小学生みたいであるな。もっとちゃんとしたものを書きたいと思う。全てに関して思うのはそのこと。
そろそろこのホームページも読みやすく改造しなければ。サイト名変えようかな、とか思ってたんですが、例の素晴らしい同人誌のプロフィールのところにサイト名を入れていただいたのでせっかくだからこのまま続けます。ちなみに改造社なんとか、にするつもりでした。改造社Yとか、改造社Nとか、有限改造社工藤とか。うまくないな。
これからもよろしく、です。
12月11日
ど、どいつもこいつも私の好きなやつぁは東大に行きやがって!
や、やっぱり東大ってなんかちがうんだな。そうか…ああ…ああ…そうなんだよな。わかっているんだよ。
12月10日
死んだように生きている。
食べて動いてるだけって、意味。だよ。
あ、一月に誰か一緒に世田谷ボロ市にいきませんか。たしか日にちは15,16。だな。16のが一日中暇かな。
分からないことがある時にググるという習慣をやっと身に付けた。でも脳みそがグーグルに依存しないように、癒着しないように気をつけねばな。ところで目が活字を拒否するくらいに、特に夜中、痛くなるのでしばらくはサングラスとかかけて日差しを遮ろうと思う。
12月9日 夜
夜に自転車をこいでいるとたまに、家に帰れなくなることがあって、
何故か突然、自分がなぜいま環状八号線を家のある方角に向かって走っているのか、分からなくなってしまう。そうするとなんか馬鹿みたいにはらはらして、まだ家まで五キロとかあるのに自転車をこぎたくなくなったりして、だいたい同時に、非常に恐ろしい方向音痴を発症する。ハッカキャンデーでも舐めてガードレールに座ってるとなおるんだが、ほんとに途方に暮れる。
そういうときには歌ができるから面白い。なんかどきっとするようなフレーズとか出てくるから面白い。だがそんなものそんな時に書きとめるわけもないしほとんど泣きそうになっているのでもったいないな、と後から思うのです。
たぶん麻薬をやるとああいう状態がずっと続くんだろうなと、知らないながらに思います。
12月8日 中華街に行ったこととか
中華街の上海ガニを食べる店には給仕の娘さんがいた。
中国人なんだろう。日本語があんまりうまくないのを自分で分かってるのか、メニューを説明するときにはメニューの写真を乾いた指で触れて示しながらゆっくりしゃべっている。
ネット上で有名なその古い店は、赤い壁に金の浮彫の模様が施されていて、通路にわずかな段差を作って食事用のテーブルが段差の上に置かれている。煙草の匂いと隣の席で弟が飲んでいる梅ジュースの匂いが混ざって少し気持ち悪い。
弟と父が興奮した声で食べきれないほどのメニューを注文する間、私は娘さんを見ていた。痩せた首筋と背中に力が張りつめて、これ以上ないほどに緊張して、きっと彼女、家に帰ったら肩が凝って苦しむだろうと、そんなことを思っていた。上海ガニは身が甘くて、しかし私は、既に、無意味にカネをばらまこうとする父とそれに悪乗りしてストレス解消しようとしている弟に嫌気がさして胸やけしてきていた。
娘さんは奥に厨房への仕切りの直前で、いつも肩の力を抜いて、安心した顔をした。他の給仕の女性と中国語でほんの少しの会話を交わして明るく笑う。真っ黒な髪を引っ張り上げて上のほうで御団子にして結んでいる。
頑張っているけど疲れている人、笑っているけれど本当は嫌気がさしている人ならいくらでもいるが、
あの娘さんの美しさと言ったら、本当に働いている姿の美しさが、輝いている。
私は、明日の朝方家に帰るであろう彼女の腕を指先まで温める朝の熱いお湯を想像した。
そういうわけで私はまったく上の空であった。
娘さんは別に美人じゃないのに素敵過ぎる人だった。
食べている途中で給仕長の日本人がわたしのジャスミンティーにお湯を注いだ。私はあの娘さんから見えるところで、馬鹿みたいに食べきれない量の料理を同席者が注文することを恥ずかしく思った。
上の空だったので父に何回か「おい!」と言われたがその声も興奮していて嫌だったので「ああ、すいません、申し訳ない。」と言ってずっと娘さんを見ていた。父は私と、性格や、素敵なものを見つけた時に向かっていく姿勢みたいなものが似ているから結構好きなのだが、完全に金に食われているので見ていて苦しい。苦々しい。(母を馬鹿にしているわけではない。)
しかもその父が薬打った後みたいな興奮した声で弟と自分を自慢し合っている会話は聴いているだけで脳が壊れそうである。
私は二人の後ろを歩いてそのあとも中華街を回ったが、もう金を使いに来たみたいに金を使うんだ、これが。私はかなり恥ずかしかった。
私は金を無駄遣いすることが嫌いです。
自分が愛されるために使う金も嫌いです。結局互いの感覚を麻痺させてしまうだけになる。
ただしプレゼントを交換するときにはだいたい高校生くらいになると市販品を買い求めて持っていくのが普通であり、自分で使ってたTシャツとかをあげる人は少しおかしい。結婚式に行くときに、お金の代わりに昨日の晩飯の残りを包んでいくのは非常識だ。非常識すぎると言って笑ってくれる人もあまりいないだろう。
しかしプレゼント交換だとか、お祝い金とかいうものは、毎日必要なものではないし、最低限の礼儀が必要になってくることだ。そういうものに使うお金は無駄遣いではないと私は思っている。むしろ心の入れ方次第で最高に素敵な買い物になるだろう。礼儀として使えるお金を最大限楽しんでもらえる形で役立てるのも、また礼儀だ。そこ、考えるとこ。
いくら日ごろ仲間を盛り上げて楽しませていても礼儀が全くないのでは結局軽蔑される。
親しき仲にも礼儀あり。
ちなみに礼儀でガチゴチになってて、礼儀を活用できない人も軽蔑される。つまらない。
もっと言えば、日ごろから礼儀と無駄遣いのお金や、活用、なんてことを分解して考え続けている人もなんとも付き合いづらい。私はこんなことをいつもいつも考え続けているわけではない。今書いているから考えてるんであって。
金を払わないと友達ができないようなやつ嫌いだぜ。
特に若いうちは、一文無しになっても好かれ続けることが出来るだろう。誰にでもとは言わないが、本当に自分のことを好きでいてほしいと願う人には。全ては言葉の使い方とふるまいだと思うんだけどな。だって我々は喋れるし動けるんだから。そういうことのために本を読めばいいのに。
やはりー、自分自身に知識を詰め込んだり、本を読んで色々と学んだりするのは、自分が本当に追い詰められて身一つになった時に必死になって自分を輝かせるためのもので、誰かとやっぱ最後まで生きてるうちはお友達でいないとさみし過ぎるから、いつも自分が一文無しの身一つ宿なしに近い状態になったときにそれでも友達でいてくれる人がいるのかということを私は気にしてるんです。
私はどうも、本を読んだほうがいいですかとか、どの本から読み始めたらいいですかとか、そういう質問には上手に答えかねますのですが、なんとなくいつもは「私は夏目漱石から読み始めましたよ」とか答えちゃうんですけど、なんだっていいんじゃないか、という感じです。ただ、最近の小説やらなんやらは、あまりにもねじまがった関係や会話や感情を、筆者自身が好んでいて弄んでいるようなところがあるから、私のような時代に乗り切れない人が読んだら疲れちゃうし、なんかギットギトだなあ、って思うし、時代の流れなんて感じ切れていないような人や子供が読んだら、その支離滅裂でグニョグニョなかんじの中毒にかかっちゃうから、きっとそういうものを読んだ後夏目漱石やらなんやら読んだってわかりっこないんだろう。そうなっちゃうことを私はすごくもったいないと思う。
から、古いものでも名作と言われるものを読んでおくのはそれなりに大切なことなのかもしれないです、よ。別に最近のものは読むなって言ってるわけじゃなくて、固定観念的なものを悪戯に自分の中に作りすぎないようにするには、頭(古いもの)から入るか尻(最近のはやりのもの)から入るかっていったら頭からは入って幅広くやったら良いのではないかと、私は思っているということがいいたいだけであります。「鯛焼きは頭から食べるほうです」って言う感じの柔らかさであります。私はそんなに言い張りたいとか、言い放ちたいとか、そういうのじゃないのです。このホームページはそういうところだと思っていただきたい。
今日は楽しかった。
12月7日
中華街に行ったことを書こうと思ったがあまり文章にならない。
横浜は都会で、横浜のカモメは人間に慣れ過ぎていた。
なんかなあ、なんでこうも、何も考えずに歩いて食べてお金を払って、服従させたり自慢したり、自慢げに。
つかほんとに日記書けなくてどうしよう、です。
自分の部屋の床が、床がというか部屋が寒い。
碌な事がない。あったかもしれないけどいまは忘れた。
12月6日
まるでだめな若者になっていてすいません。ちゃんとなおりますので。
12月5日 幻肢
なんかもう、普通に妄想激しい人になって困る。みんなに気付かれたら終わると思うけど、これが気付かれないからこまる。
あーあ、小論文どうすっかなー…面談までに決めねば。面談は18日なり。
蜜柑を食べきっちゃって、朝起きた時に飴をなめるのがテスト終わっても癖になりそうで、しろばんば。蜜柑がいいよ。蜜柑が。
部屋の床が教科書とノートと本で踏み場がない。私の部屋は結構、綺麗な時と汚いときがあって、まあ私の家に来た人がみんな「綺麗だった」っていうのは綺麗な時にしか人を呼ばないからなんですよ。だってふだん「部屋が汚くて困るわ―」とか言ってる人でも、私の部屋が汚いの見た途端に嫌な顔するんだもん。だから片付けて本を売ってから人を呼ぶ。汚い時でもほぼ勝手に出入りできる2,3人の友達はレアです。感動してください。
あー、そうそう、19日は海に行くんですよー。楽しみです。江の島じゃないです今度は。写真でも撮ってきます。一眼も持っているんですがフィルム代が払えないのでデジカメしか使わない。
今日はカラオケに行ってきました。カラオケトマトクラブが改装中でしたけど、なーんか改装したら値上げするような気がして嫌だな。帰り道に友達の家に寄って、最近あまりにも寒いから上着をを三百円で譲ってもらった。しばらくは気に入ってこればっかり着ていると思う。
今日はなんか、カラオケに行って二時間歌いまくっても気持ちが白くならなかったので上着をくれた友達のお姉ちゃんに雪見大福を奢ってもらって、何か快感でした。何が快感だったかって、私は弟の友達から見れば「工藤の姉貴」なわけだが、それってどういう感じなんだろうな、ってずっと思っていて、今日、「雪見大福でも食べなさいよ。工藤さん。」って言われた時に、「これかあ、こういう感じか。」って思ったことが!
化学と数学ができません。文系は頑張った時は蹴り倒せると断言しますが、理数は無理です。もうこれ以上数学とかにいじめられたくないです。なんか私が数学できないことに色々理屈をつけて、なんでできないのか、っていうことの解説をしてくれる人は多いですが、なんかそういうものを超えた何かの酷い力のせいで数学ができないんだろうと思います。だからもう解説はいいです。
冬休みのスケジュールが割と決まってきた。かなり忙しいぞ。なんでこんなに忙しいんだ。たしかに遊んでもいるが、塾にも行っていないはずだぜ。そうか、模試を受けないと。とか言って、生まれて初めて塾に言われたでもなく自主的に模試を受けるつもりでいる。……この日記を一言で言うとしたら「だらしない!!!」
12月4日 今日の昼:お米、肉まん、ピザまん。
一寸金持ち気分なので、ブックオフで本を二、三冊買うかな、と思って入ったら狙ってた全十四巻の本が一巻105円になっていたので、「うへあー!!!!」って言って買ってしまって、後一冊何となく小泉八雲集(105円)をカゴに放り込んだら、そりゃあ、そうだけど、結構な支出になってしまって、夜の道をゆっくり迂回しながら家に帰った。本を買うととりあえずあと一週間は楽しいはずだぜ、って思って本当に気分が明るくなる。やっぱり私は本が好きなんだと思う。
学校では(数学のせいで)学年上がれないんじゃないかということはとりあえず忘れて、のんきに来年小論文を書く授業をとるかとらないか、みたいなことを考えていて、これがなかなか単位取るのが大変らしくて、色々とやりたくない理由もあるんだが、なんか難しいって言われたら燃えるじゃん!て、感じです。きっとこういうことで私は身を滅ぼすんです。今までずっとそうでした。でもいいんですよくないけど。
よそゆき顔で自販機のボタンを押しながら、僕ぁ淋しい。思って、ココアを飲み干す。淋しいのがまたいいじゃんか、って、そこにいるはずもない女の子が言う。最近そこにいるはずのない女の子が、一人になると周りに発生し過ぎて頭がおかしいんだと思う。「コニャックってフランスの地方の名前なんだよ。」ってにかにか笑って言ってた、気持ち悪い美人に会いたい。ここにいるはずはない。ここにいるはずない。そうだいるはずなんてないんだよ。
実はブックオフから帰る途中で神社もないのに立ってる鴨居の前で読んでた八雲集が感動的で、感動的っていうか怖くて、怖いしおぞましいんだけども、あの中では「恋」っていうのが輝いてるなあ、と思って、今はここまで恋が綺麗に見えるものってあんまり流行ってないなあ、とか考えた。八雲集に出てくる男は、女に恋をして、その結果、ばけものに殺されそうになったりもするんだけど、なんだか、ねじ曲がってない恋って、あるんだよなぁ、と思わせてくれる。
つーか、なんかいきなりで申し訳ないが、私は「恋愛」っていう言葉にいまいち実感がやってこない。「恋」と「愛」に分けたいんだが、と思ってしまう。「恋愛」ってなんだいね。恋と愛って同時にできるのかな。ものすごいね、それ。「恋→愛」じゃなくってか、「恋愛」なのか。「愛→恋」ってのはなんか良くわからないが、なんか少女漫画みたいなことになっちゃうが、「恋→愛→恋」ってありだろうか。なんかもうやだな。ギトギトしてきて。
「恋」と「愛」は分けています。今は一応。
八雲集は面白いので読んでみてもいいんじゃないかな。貸しますよ。普通の定価590円のだけど。
咳が酷いもんだから家の空気が悪いのかと思って散歩に出たら、さらに家に入った時から強烈になってミカンを食べまくっていたら夕方から夜になって、うん、まあ、明日も試験なんだが、これはいったいどうしたものか。どうもしないんだけどね。てなわけで二時間寝てからもう一回起きて勉強します。ではでは。みなさん変な咳に気をつけて。