夕帰りの子供たち 平成22年12月の日記(クリスマスまで)

12月25日 
 後で書きますってほどのことでもないですが、
 わたしは珍しくイラッとしてたので、もっとイライラしてから書いたら面白い日記になるんじゃないかなーと思ってたら例に漏れず「ま、仕方ない。許してやろう。」ってなっちゃったので、結局普通に書きます。
 今日は昼から練馬区で遊びました。そこら中クリスマスって感じではなくてよかった。
 
 なんか、「今日は」みたいなことを書く日記って言うのは結構続けにくいなあ。まず日記って言うのはオールモストノンフィクションとはいえ、自分のことを書くって言うのがまた、なんか、「僕、僕っ」って感じでどうも、やりにくいですな。
 どっちかっていうと誰かと一緒にいたら私とあなたの区別がないような人間なので、ふたりで○○、のところを無理やり切りはずして、私は○○、にして書くって言うのは、どうも…かといって一緒に何かした相手のことが書けるほどに分かってるのかと言えばそんなことは絶対ない。それで良いに決まってると思うしね。
 私の今日という日は場と相手に癒着してるので、そのまま書こうとするとプライバシー的なものを考慮してるわけにはいかなくなるのです。 
 
 とりあえず最近私はある人にからかわれているので、すべての行動が「ああ、もう!こうすりゃからかわれねえんだろうなあっ!」っていう意識の元に注意深くなっています。つまんねー。
 なんか今日は昨日にも増してどうでもいいことを書いてしまいそうだ。
 だいたい我が家には暖房器具がまったくないのでパソコン打てないんですよ。指がかじかんで。私の部屋で一番暖かいものは今現在パソコンでしょうね。たぶん私よりパソコンが暖かい。指がかじかんでる時にキーボード打っていると、どうしても書き散らす形になって、こういうふざけたみたいな文章になってしまうのですが、ちょっと春になったら戻るので許して下さい。やたら密度が荒くて長いだけの文章になる可能性もありますが、というかなっていますが、寒さのせいです。
 
 ところでそろそろ文章を書く以外のはけ口を見つけないと、煮詰まってきました。
 もしも私が文章を全く組み立てられなくてこんな悪ふざけみたいなのも書けない人間だったなら、とっくに犯罪者になるか自殺するか消えてるかしていたと思いますが、なんだか、これまで書くことでどうにかなってきたことが、感情が、ことごとく明日へはみ出していくのです。
 本でも読めばなんとかなるんですが、疲れるのでそんなに毎晩毎晩本ばっかり食べてるわけにいかないのです。
 
 そろそろ器物損壊くらいから始めそうです。しかし私は器物損壊をむやみやたらにやる人が嫌いです。嫌いというか、意味がないな、と思います。一個壊したらまた明日もっと大きな達成感、そう快感の得られるものを求めるようになるでしょう。別にびびってるわけじゃありません。ここにある茶碗とか、投げればすぐに壊せます。ほら、がしゃん。弟よ、危ないぞ。踏むな。
 でもこんなんやってたらいつか家をこわし始めますし、そういうのは私があんまり尊敬しないタイプの人間である父がやっていたことなので出来れば避けたいところです。エスカレートするとパソコンまで壊して日記を更新できなくなり、墓穴を掘ることにもなりかねません。まあそうなったときには結構頭がおかしくなって日記のことは忘れているかもしれませんが。
 私はあのKAGEROUに対してでさえアマゾンのレビューに誰かが書いていたようにトイレットペーパにしたり、ちぎってメモ用紙にしたりすることなく、穏やかな表情で接しています。穏やかな人間です。
 まあどうでもいいんですよそこは。要はまっとうな方法で解消しなきゃいけないらしいんですよ。まっとうというか、他人からまっとう(であるかのよう)に見える方法でね。
 日記というのは自分のことを書く場所だからあんまりねえ、ものすごいことは書きたくないし、書けないし。そろそろ書く以外のことを覚えてもいいと思うし。もの書いて食べていけるとは思ってないし、そのために書いてるわけではないのですから。ううむ。
 いや、なんかほんとに適当な日記ですなあ。申し訳ない。左手がそろそろ動かないのでこの辺でやめます。
 うーん、なんか、これでいいのか悪いのかも分からなくなってきてしまったよ。頭もかじかんでるかもしれない。もうずっと私は日記を書いてればいいじゃないかという気さえする。どうしようもない。ごめんなさい。

12月24日 イブの魔法 

 いま、師匠のラジオを聴きながら日記を書いています。私はこのラジオを聴くのは初めてで、チャットしながら聴いたら頭のおかしいことを書きこんでしまいそうなほど興奮しているので、ちょっと自陣に戻って日記を書きながら聴こうと思います。あ、もうイブじゃなくなっちゃった。
 ああ、だめだなあ、これ聴きながらだと、先生の声が入るたびに力んで変な方向に文章が飛んでしまう。しかし、お付き合いいただこうと思います。
 ああ、もうにやついっちゃって。
 チャットで私のホームページを見てくださってる人に会えてすごくうれしいです。ほんとに今日はいいことばっかりあるなあ。
 ねえそこのあなた、可愛い下着をつけてるねえ。そんな気分です。
 イブの魔法で今日はずっと最近言おうと思って言えなかったことを言えたし、昔のことを考えるにしても今まで見えていなかった嬉しいことを思い出したりして、ああ、そういえば、今日は成城学園の駅の上のクッキングスタジオ(料理教室みたいなもん)で500円払ってホールケーキを作ってきて、私は今までああいう何から何までそろえてあってプラモデル組み立てるみたいに料理するのは嫌いだと思っていたのですが、ああ、思っていたより行けるなあ、と、思うくらいに機嫌がよかったんですよ。弟についていけないくらい上機嫌なこと考えるね、って言われるくらいに。
 弟が珍しくかわいらしく、私の心が明るいと自分の心も明るいとかいうので床屋代出してやっちゃったのです。それで私はお金がない。こういうときにゃ、ほんとに、お金なんてなくても幸せだって、思うなあ。
 そりゃ兄弟ですから、日頃いろいろ言いますが、彼は私の生きがいであると言っても過言ではございません。ともに乱世を生き抜いてきた仲ですからね。しかもなかなか面白いことを言うんですよ奴は。ううむしかし、日頃あんなにぶつくさ言っておいて、いまさら生きがいだなんだと言うのもどうかって、いうか照れくさいので、このへんにしておいて、イブの魔法、イブの魔法のことを思い出して、ああほんとに、イブの魔法のおかげで、今日は街の色が違ってね、自転車乗って髪を掻き上げたりしたよ。そうそう。今日は本当にいい日でね。イブの魔法が、はたらいていたんだろうね。
 私にとってこの明るい日がどれくらい価値のあるものなのか、私がどれくらい今日という日に救われたか、私意外に誰も知り得ないんだね。それが素晴らしいところだと思うんだよね。ところで私はなんでこんなに毎日泣きそうになってるんだろうな。夜に。

12月23日

 悲しく苦しいことを、悲しく苦しいと言い続けて前に進まないのは一部の人間の悪い癖だが、この世で悲しくて苦しいとしか言い難いことの一つに、友達を置き去りにしていく、ということがある。
 私の数少ない、「親友」と呼べるくらい親しい友人の中には、お互いの存在を体に取り込むようにして、二人一つで生きているようなのもいる。離れていてもテレビである言葉が流れると、同じ番組を見ている私と友人が、同時に同じ経験を思い出すような、体の一部を共有しているみたいな感じで、何もしゃべらないでもベンチに一緒に座っていられたり、永遠に愛し合っているはずの友人が、いる。
 その一人が消えた。どこへ行ったのか分からない。
 しかし今彼女について言うことはない。だいたい彼女が消えたのは三か月も前のことで、今日分かったとかそういうのではない。そろそろ彼女について考えるのは止そうと思ったのだ。彼女とは同じ小学校で六年、同じ中学校で一年、それからもずっと一緒に過ごしてきて、同じ大学に行こうと言っていた。しかしどこの大学に行くのか言わないうちにどっかへ言ってしまった。私と彼女は同じ時期に校庭の端で太宰全集と坂の上の雲を、とにかく長いやつ読もうとかどうでもいいこと言って読破した。私たちは二人合わせればホープであった。
 人のことは言えないがすぐにどこかへ行ってしまいそうなやつで、親に縛られることも一生味わうことのないような境遇で、私も昔はそうだったから、私が最近何年かで親に縛られるようになってからは「めんどくさいねえ、自由だったのに。」なんてよく言っていたものです。
 まあ結局どっかへいっちゃった。
 さみしいことです。どうしようもない。
 でも私が今彼女のことを考えるのをやめようと決意したら、何か色々見失いました。つーか、別に同じ大学に絶対行くつもりなんてなかったのです。おたがいに。それでもどこの大学に行っても就職しても、そのへんに彼女がいて、それが大事なことだったのです。私が死ぬと言ったら一緒に死んでくれるくらいの人を、私は彼女くらいしか見つけられなくてですね。
 私はここにいるのはもう嫌気がさしました。
 毎日のように色んなことを思い出して、誰かを信じきることもせず、いつも誰かを警戒して、夜にはどこかで蔑まれている自分を思って死にたくなって、消えてしまいたいと思う。人間を嫌いなわけではないのです。人間を好きでいながらも、いつも裏切られ、気まぐれに遊ばれて、友人には皆幸せになってほしいと願っているせいで、彼らが不幸せになる時には自分の幸せさえ彼らにそっくりやってしまいたいと思っては放り出して誰のものにもならない幸せが干からびて行くのを見ている。
 私はこの狭い低い世界の重い空気の中で、いっぱしの主義を裏切るまいと裏切られても裏切られても、裏切られただなんていうのも恥ずかしくなるくらいに立ち直り続けて、精神を分断してきた。だがどうだっていい。昔のことなどどうだっていい。今の自分がいるだけだ。昔の発言などどうでもいい。この私が今から言うことをみんな聞けばいい。死んだように生きることなく、死なないでいるには変わり続けることが必要で、昨日の自分と今日の自分が、違うのも、二年前と今が違うのも、当然のことだ。私はかなりのことを見失ったが、そんなのは繰り返したことだ。
 でももうここには居られない。私も本当は誰にももう連絡したくないし会いたくもない。その分の思い出ごと無駄にされる恐怖だ。私が裏切らない分、人から裏切られる。
 私の恐怖など、肌を厚くかたく強くするためにあるようなものだ。私は冬の寒さに耐えてますます内面は無感情に、外面は興味深く惹きつけるものになっていくだろう。それでいい。
 かわり続けることだ。常に自分には成し得ないかもしれないと思わせるものを見つけ、その根本を盗んで行くことだ。分析とコピーを繰り返しているうちは呼吸や繁殖より豪華な生命の営みをしているように感じられ、解き放たれる。見つけることだ。何も見つからないで立ち止まっているから、こんな風に悶々と、昔のことを思い出したりして、昔のことなど気にしたくない。踏みつけ、咀嚼していくだけだ。だが私は自分のやっていることが意味のあることなのか分からない。タダ明日まで命をつないでいるだけのようにも感じられる。
 いろんなことを手広くやりすぎた感が溢れている。


 
12月22日
 父方の祖父が動脈瘤の手術をするらしい。それと関係なく父は築地の高層ビルに引っ越すらしい。みんなとだんだん会えなくなっていくんだと思う。
 知らない。家族のことは難しすぎる。そして疲れる。そういうことを肴にしたら酒いくらでも飲めるし、泣けるし、怒れるし、殺せる。
 あー、なんか遺書の話で思い出したけども、どっかでよんだマラソンランナーの遺書がすごい懐かしい。探したらあった 
 結構有名なのかもしれない。私は昔、この遺書が好きだった。三島由紀夫の批判かっこいいな。別に三島由紀夫が好きというわけではないのですが。
 
 ううむ、遺書の話はよそう。もういい。遺書のはなしは。しかし遺書の話は結構面白いんでないかと私は思うのですよ。でもやめよう。いつかね。
 要するに私は遺書は考えて書いたほうが良いよと言いたいんである。しかし。私は死なないがね。
 
――芥川龍之介が自殺したのを、独身のときは、あとに残つた妻子のことを考へ莫迦な奴だと思つた。死ぬなら一人のとき死ぬべきだと思つてゐた。が、自分が結婚して子供も出来てみると、却つて楽に死ねる気がする。
――本当だよ。をかしいだらうが。
――しかし。僕は死なないがね
小沼丹「「晩年」の作者」より

12月21日
 弟が父の家で遺書を見つけたらしい。素直にびびる。書き始めは「最初に自殺を考えたのは幼児の時でした。」だったらしい。父の遺書か知らないが、たぶんそうなんだろう。まじでやめてくれないか。つかそんなこと書いたらおばあちゃんが傷つくじゃないか。そういう遺書の書き方はしてはならないのではと、私は思う。しかしその遺書ってやつが開封されるような時には、私は恐怖で震えあがっていると思う。私は私について父が書いたことを見るのが怖い。
 しかしいまはまだ笑い話なので「父は中2病を引きずっているんだと思いました。」とでも言っておこう。罰が当たるね。
 何よりも弟に謝ってほしい。くそがー。
 私もかつてはいま以上に青かったので遺書を書いたりもしたが、家族には見られちゃいけないでしょ。なんかものっそい恥ずかしいこと思い出した。三浦綾子の塩狩峠読んでから毎年遺書を書きなおすってのが正月の習慣になっていたんであった。結構昔に自然消滅した習慣だが。毎年前の年のやつを見直すたびに「これじゃだめじゃん」って思うところがあったりして、結構まじめに書き直していた。あれらはどこへ行ったんだろうなあ。だめだなあ、じめじめした子供で。
 さすがにもう遺書は書かないが、今書いている詩はそれに近いものがあるんではないかと思う。だいたい私のような未熟でバラバラとした子供にとっちゃあ遺書の一通でまとめるなんてことは無理ですよ。今日は好きな人が明日は嫌いだったり、朝と夜じゃ考えが正反対だったり、見えてる希望も言葉にならなかったり、なんとなくのぐらついた欲だとか、んなもん一通の遺書にまとめようとしたら、死んだあと「始めと終わりで全然言ってること違うじゃん。こいつ馬鹿だなあ。」って、それこそ父に一蹴されて終わりですよ。
 私は昔からけっこう「○○のノート」みたいなのを作るのが好きで、ひどいことに「盗んだものノート」とかいうのも作ってベッドの裏に隠してて、いま見ると「お、おい!」って感じのものを好奇心で盗んできたりしてますから、笑っていいのか困って良いのか。笑うんですけどね。トイレの水道管とか、ゴミ捨て場のビール瓶の蓋とか、怪しげなローションとか、文房具大量とか、たばことか、お前それどうするんだよって思います。ほんと。実際どういう気持ちで盗んできたのか全く分からないし覚えていない。

12月20日
 小沢健二さんがホームページに書いていらっしゃる文が好きすぎてどうしよう。
 て、こんだけ喜んでいる割には小沢さんのCDを全部持っているわけでもないし、音源を全部持っているわけでもないのですが、なんか、そういうのもありかなと思います。あーもー、すごいなあ。私は生き返りたい。

いいかー!俺には時間がないんだ!年末と呼べる時間のうちに金をかき集めなくてはならないんだ!俺の仕事は年末しか儲からないんだ!よって時間がない。もう最近てんてこまいだゼ。
 自分の金儲けと消費を見ていると、本当に金って言うのは使うためにあるものだって、わかります。
 体を擦り減らしてお金を作って、そのお金で修復するのです。主に、本を買ったり食べ物を買ったりしてね。貯蓄という言葉は忘れた。つーか覚えてたら絶望してる。
 なんかこうやって働いてると、全然自分が大学に行く気がしない。永遠に高校生をやりながら働きまくっている気がする。ああ…何もできないししないっていう時間がないから幸せだなぁっ!夜はぐっすり眠れるし、幸せだなあっ!
 つか大学に行く気が起きない。正直言わせてもらうとね。
 心がくたばりかけている。信じられん。

しばらく書くの休みます。23日に先生のお店行ったら復活すると思います。
ではでは、
風邪などにお気をつけて。お元気で!

にしまきがやってたのでやってみた。→これ
おもしろい。
はっはっは。おもしろい。だがそれだけのことさ。凡人かオールマイティーかだと…う、うるさいなあ。オールマイティーを別にいいとは思わない。わたしとしてはね。えー…つうかこれほんと…う、うるさいなあっ!

ピーター・パンとウエンディ、好き

12月19日
 フラワーロードに連れて行ってもらった。一人では行かなかっただろう。はしゃいだ。
 コレ、ほんとにあった。
 こういうところを歩いた。
 海を見てフラワーロードを通り、川を見た。とても楽しかった。

12月18日
 ベランダから飛びたくて仕方ない。死にたいという意味ではない。新宿のほうまで見える景色が今日だけとてもきれいだ。
 蒲団をたたんでいる間ずっと頭の中で電車が頭上を通り過ぎる音が響いていた。そういう日常。死んだような生き返るような日常。昼過ぎに起きて何かやり遂げる様な失うような日常。こんな文章、誰かが好み、誰かが嫌うような文章。断定はできない感情。断言できない未来。ただ精一杯の毎日。喜びで悲しみで未来で過去で、いつかキャパが言ったことを河原で思い出す。
 誰もいない家は風の通る道。いつか誰かが言ったことが、全ての平面に張り付いてアイスクリームの溶けたのをなめている。
 さよなら荒んだ気持ち。
 全ての歴を私は捨てて好きなように生きていくさ。さようなら、崩れそうな慰められない気持ち。何回死にかけても捨てられなかった自虐的な気持ち。さよならさよなら。私は見たことをそのまま愛してとっておく。無駄遣いは良くないよ。何事も、時間も、体も。

12月17日
 自分で言うのもくすぐったいが、結局私は理屈より感性、直感の人なので毎日日記を書くのは難しいな。理屈で考えれば普通に木っ端みじんなこと書こうとかするし。昨日考えたことは今日つまらないし。
 
 誰かの真似するのが好き。文章を書く時でいえば太宰とかの真似が好き。好きって言うか、そうなってしまうんだよね。読むと。
 最近私の詩が狂ってんのか整ってんのか乱れてんのか繋がってんのか分かんないくらいに変わってきたのは一緒に書いてくれているnickさんと谷さん(コクサンと読む)の影響なんだけども、やはり気に入って読んでるものや毎日見ているものや「おお!」と思ったものに、瞬間すごく自分も近づく。
 そうするとたとえばいま「いいなあっ!」と私が思っているものを書いている人には褒めてもらったりするんだけど、それは近づくと同時にこないだまで愛してやまなかったものから離れていくということでもあって、しかしまあ、こないだまで愛していたものは愛した時間とかその他いろいろの分いま好きなものより愛していて、たぶんこれからもずっと好きだろうと思う。そういうものから離れていくこともいまは耐えられなく切なくて、染まるにしても戻れるところまでにしよう、とかって、ちょっと全力じゃない。行っちゃって戻ってくる自信がないからな。
 でも最近軸が奪われることにも慣れてきて、ここらへんまでだったら戻れるんだな、っていうのが分かってきたから前みたいにつっこみすぎて迷惑掛けることにはあんまりならないだろう。つっこむのは痺れるけどね。楽しいんだけどね。
12月16日

 ある本を読んでいるんですが、一行一行本当に面白いのですが、これを読んでいるとこないだまで悪しきものだと言い聞かせて自分から追い出した強さや気持や寂しさがまた戻ってきてしまう気がして、改めて私は読んだ本と師匠には影響されやすい人間だとわかりました。
 これは少し加減しないと、そのうちに変な宗教にはまりこむのがオチです。困るなあ。
 しかし面白い本は山ほどあるのだな。私はやっぱり本が好きですな。もし可能なら風呂に入るのを週に二回にして、机を売り払い、一汁一菜の生活を厳守し、川で洗濯をし、鉛筆をなめ何か考えては書き、本を読んでは水を飲んで、木を愛でては人を探して生きていきたいとか思ってしまった。あら…なんか文体が…。

12月15日 練馬区
  
 練馬区で、私が通ったことのある部分がとても好きだ。練馬区にある食事屋が好きだ。八百屋が好きだ。公園が好きだ。静かな寺の横を通り抜けて行く道が好きだ。坂道も平たい道も好きだ。地面の上を走っているというのをちゃんと感じられる。
 世田谷区は、あんまり好きではない。杉並区も。人が建物やネオンや地面に食われている気がする。
 それにあまりにも、辛い思い出が多い。私の暗い痛い思い出は、ほとんどすべて、世田谷区と杉並区のあたりのことだ。
 僕ァ、もう、世田谷区や杉並区に住んで行くことに限界を感じ始めている。まったくひどいことだ。
 私は東京に住んでいるということは割とどうでもいいのだ。東京について何でも知っているわけではないし。新宿や池袋に出た時に、「ここは東京だったんだな」と、はっとするくらいにいつもは何んとなくしか東京というくくりを感じていない。私が住んでいるところは東京というよりは世田谷区。つまんねー世田谷区。くだらねえ世田谷区。ここじゃ、暗い思い出が痛いよ。
 しかし世田谷区にお母さんが住んでいるので、今日も身の細る思いで、人が怖い道を、ネオンに巻き殺されながら練馬区から、世田谷区へ帰ってきました。南無阿弥陀仏。こんな街でしにたくねえ。
 私は、私をかき消すような街の作りが嫌いだ。そういうわけで、自然を愛す。

 言ってる先からへたくそなトランペットが公園から聞こえてきます夜の九時半。救急車のサイレンの音が左眼球に響く。もう冬をやめてくれないだろうか。ほんと、人間や人間のいる風景が美しかった時代は、どこへ行ったんだろう。

 二度と戻れない日を生きてもいいんだよ。
 むしろ戻れないように生きていきたい。やり直しは戻ることではなく進むことであるよ。
 二度と戻れない日を生きていること。それを踏みしめていきたいもんだ。今日のからっぽな返事の一つ一つを塗りつぶして、明日にはもっといい言葉を使いたい。
 僕は死ぬ。時を放って僕は死ぬ。
 海へ行く。
 しかし、「海へ行く」って言うのは、なんて青臭い言葉なんだろう。あはは。

12月14日
 クリスマスパーティーに招いていただき、にやにやしながら自転車を漕いで行ってきました。梅ヶ丘です。
 梅ヶ丘は小田急線でいけます。私が前に住んでいた松原というところのとても近くです。
 ものすごい御馳走をいただきました。今年のクリスマスはもうこれでいいです。休みの日に友達の家に行くのは楽しい。
 とても楽しかった。ありがとう。

12月13日 
 クリスマスの夜にお母さんが食事に行くって言ってたのに行かないことになったとか突然言うから私の予定がぐちゃぐちゃだ。
 お母さんに見つからないように赤坂のイルミネーション見に行こうと思っていたのに。
 デート(単に男と女が二人で出かけることをデートと呼ぶ場合のデート。)が潰れた。(つーか書いていて思ったんだけどやっぱり男と女が二人で出掛けるだけでデートって言うのはおかしいと思うぞ。)
 今週の土日は弟が父方の祖父母の家に行くらしい。わたくしはどうも、あの家では完璧な人間だと思われているらしくて気が滅入る。私は東大志望ではない。
 テレビで今年を振り返る的な、芸能人が喋っているだけの番組を弟が見ていて、自分なりにこの一年を振り返ろうとして、ことごとく言葉にならないと思い、挫折した。
 なんかこの一年は、一気に正しさに近づいたような、戻れないほど間違ったような、生きている意味を見つけたような、死にたさが増しただけのような、そういう一年でした。全部だと思う。そういう感じだから、僕はほんとに疲れたよ。ただ、疲れないことが幸せとは限らないだろう?むしろ疲れないで幸せが得られるかね。
 ああ、でも、僕はちょっとだめだな。もうやだな。あの男!ウマが合わないのに、二人で全く同じことに感動しているっていうのが、もう殺したいくらいに苦しくて、何時だって間違ってるのは僕のほうだよ。僕、男の子になって最後は死にたい。
 とか言ってる場合でもないので、みなさん、詩のコーナーもよろしく。三人でやってます。左上の「詩」のところから飛べます。

12月12日
評論文(春休み?の宿題)が帰ってきたよ。『現代の消費社会』という文章です。
 
 『工藤さん 大人の文章である。人間の欲望の哲学的考察から始まり、欲望は欲望を生み、それが独裁者や教祖を生み出すという社会システムまで一気に論じている。今は亡き思想家の今村仁司の議論に近い。劇作家野田秀樹の最新作「キャラクター」は、そうした教祖の出現とそれを生み出す集団心理を鋭く突いていた。』
ってコメントが張りつけてあった。なんか、野田秀樹のは「ザ・キャラクター」じゃないのか。
 大人の文章かどうかは別として、最近ここまで学校の先生でちゃんとコメントを書いてくれる人がいなかったので素直に嬉しい。その先生に今日「数学、三学期授業や済んだらもう一回二年生だからね、分かってるんでしょうね。」と言われたというね。あは。数学3点だからね私は。英語演習や国語演習との差が100点以上、というね。いまさら勉強しなかったからとかそういうみにくいこと言わないけど。
 それはともかく、文章に関してはまだ読み返していないので何を書いたか全く思い出せないのだが、…哲学的考察てなんだ。春休みの私にそんなことができたわけないと思うんだが。いまも出来ないぜ。
 私はなんだか、このころから教祖のこととか考えていたんだな。どうしようもないねもう。教祖君に片思いしてる小学生みたいであるな。もっとちゃんとしたものを書きたいと思う。全てに関して思うのはそのこと。
 そろそろこのホームページも読みやすく改造しなければ。サイト名変えようかな、とか思ってたんですが、例の素晴らしい同人誌のプロフィールのところにサイト名を入れていただいたのでせっかくだからこのまま続けます。ちなみに改造社なんとか、にするつもりでした。改造社Yとか、改造社Nとか、有限改造社工藤とか。うまくないな。
 これからもよろしく、です。

12月11日
ど、どいつもこいつも私の好きなやつぁは東大に行きやがって!
や、やっぱり東大ってなんかちがうんだな。そうか…ああ…ああ…そうなんだよな。わかっているんだよ。

12月10日
死んだように生きている。
食べて動いてるだけって、意味。だよ。
 
あ、一月に誰か一緒に世田谷ボロ市にいきませんか。たしか日にちは15,16。だな。16のが一日中暇かな。
分からないことがある時にググるという習慣をやっと身に付けた。でも脳みそがグーグルに依存しないように、癒着しないように気をつけねばな。ところで目が活字を拒否するくらいに、特に夜中、痛くなるのでしばらくはサングラスとかかけて日差しを遮ろうと思う。

12月9日 夜
 
 夜に自転車をこいでいるとたまに、家に帰れなくなることがあって、
 何故か突然、自分がなぜいま環状八号線を家のある方角に向かって走っているのか、分からなくなってしまう。そうするとなんか馬鹿みたいにはらはらして、まだ家まで五キロとかあるのに自転車をこぎたくなくなったりして、だいたい同時に、非常に恐ろしい方向音痴を発症する。ハッカキャンデーでも舐めてガードレールに座ってるとなおるんだが、ほんとに途方に暮れる。
 そういうときには歌ができるから面白い。なんかどきっとするようなフレーズとか出てくるから面白い。だがそんなものそんな時に書きとめるわけもないしほとんど泣きそうになっているのでもったいないな、と後から思うのです。
 たぶん麻薬をやるとああいう状態がずっと続くんだろうなと、知らないながらに思います。

12月8日 中華街に行ったこととか
 
 中華街の上海ガニを食べる店には給仕の娘さんがいた。
 中国人なんだろう。日本語があんまりうまくないのを自分で分かってるのか、メニューを説明するときにはメニューの写真を乾いた指で触れて示しながらゆっくりしゃべっている。
 ネット上で有名なその古い店は、赤い壁に金の浮彫の模様が施されていて、通路にわずかな段差を作って食事用のテーブルが段差の上に置かれている。煙草の匂いと隣の席で弟が飲んでいる梅ジュースの匂いが混ざって少し気持ち悪い。
 弟と父が興奮した声で食べきれないほどのメニューを注文する間、私は娘さんを見ていた。痩せた首筋と背中に力が張りつめて、これ以上ないほどに緊張して、きっと彼女、家に帰ったら肩が凝って苦しむだろうと、そんなことを思っていた。上海ガニは身が甘くて、しかし私は、既に、無意味にカネをばらまこうとする父とそれに悪乗りしてストレス解消しようとしている弟に嫌気がさして胸やけしてきていた。
 娘さんは奥に厨房への仕切りの直前で、いつも肩の力を抜いて、安心した顔をした。他の給仕の女性と中国語でほんの少しの会話を交わして明るく笑う。真っ黒な髪を引っ張り上げて上のほうで御団子にして結んでいる。
 頑張っているけど疲れている人、笑っているけれど本当は嫌気がさしている人ならいくらでもいるが、
 あの娘さんの美しさと言ったら、本当に働いている姿の美しさが、輝いている。
 私は、明日の朝方家に帰るであろう彼女の腕を指先まで温める朝の熱いお湯を想像した。
 そういうわけで私はまったく上の空であった。
 娘さんは別に美人じゃないのに素敵過ぎる人だった。
 食べている途中で給仕長の日本人がわたしのジャスミンティーにお湯を注いだ。私はあの娘さんから見えるところで、馬鹿みたいに食べきれない量の料理を同席者が注文することを恥ずかしく思った。
 上の空だったので父に何回か「おい!」と言われたがその声も興奮していて嫌だったので「ああ、すいません、申し訳ない。」と言ってずっと娘さんを見ていた。父は私と、性格や、素敵なものを見つけた時に向かっていく姿勢みたいなものが似ているから結構好きなのだが、完全に金に食われているので見ていて苦しい。苦々しい。(母を馬鹿にしているわけではない。)
 しかもその父が薬打った後みたいな興奮した声で弟と自分を自慢し合っている会話は聴いているだけで脳が壊れそうである。
 私は二人の後ろを歩いてそのあとも中華街を回ったが、もう金を使いに来たみたいに金を使うんだ、これが。私はかなり恥ずかしかった。
 
 私は金を無駄遣いすることが嫌いです。
 自分が愛されるために使う金も嫌いです。結局互いの感覚を麻痺させてしまうだけになる。
 
 ただしプレゼントを交換するときにはだいたい高校生くらいになると市販品を買い求めて持っていくのが普通であり、自分で使ってたTシャツとかをあげる人は少しおかしい。結婚式に行くときに、お金の代わりに昨日の晩飯の残りを包んでいくのは非常識だ。非常識すぎると言って笑ってくれる人もあまりいないだろう。
 しかしプレゼント交換だとか、お祝い金とかいうものは、毎日必要なものではないし、最低限の礼儀が必要になってくることだ。そういうものに使うお金は無駄遣いではないと私は思っている。むしろ心の入れ方次第で最高に素敵な買い物になるだろう。礼儀として使えるお金を最大限楽しんでもらえる形で役立てるのも、また礼儀だ。そこ、考えるとこ。
 いくら日ごろ仲間を盛り上げて楽しませていても礼儀が全くないのでは結局軽蔑される。
 親しき仲にも礼儀あり。
 ちなみに礼儀でガチゴチになってて、礼儀を活用できない人も軽蔑される。つまらない。
 もっと言えば、日ごろから礼儀と無駄遣いのお金や、活用、なんてことを分解して考え続けている人もなんとも付き合いづらい。私はこんなことをいつもいつも考え続けているわけではない。今書いているから考えてるんであって。 
 
 金を払わないと友達ができないようなやつ嫌いだぜ。
 特に若いうちは、一文無しになっても好かれ続けることが出来るだろう。誰にでもとは言わないが、本当に自分のことを好きでいてほしいと願う人には。全ては言葉の使い方とふるまいだと思うんだけどな。だって我々は喋れるし動けるんだから。そういうことのために本を読めばいいのに。
 やはりー、自分自身に知識を詰め込んだり、本を読んで色々と学んだりするのは、自分が本当に追い詰められて身一つになった時に必死になって自分を輝かせるためのもので、誰かとやっぱ最後まで生きてるうちはお友達でいないとさみし過ぎるから、いつも自分が一文無しの身一つ宿なしに近い状態になったときにそれでも友達でいてくれる人がいるのかということを私は気にしてるんです。
 
 私はどうも、本を読んだほうがいいですかとか、どの本から読み始めたらいいですかとか、そういう質問には上手に答えかねますのですが、なんとなくいつもは「私は夏目漱石から読み始めましたよ」とか答えちゃうんですけど、なんだっていいんじゃないか、という感じです。ただ、最近の小説やらなんやらは、あまりにもねじまがった関係や会話や感情を、筆者自身が好んでいて弄んでいるようなところがあるから、私のような時代に乗り切れない人が読んだら疲れちゃうし、なんかギットギトだなあ、って思うし、時代の流れなんて感じ切れていないような人や子供が読んだら、その支離滅裂でグニョグニョなかんじの中毒にかかっちゃうから、きっとそういうものを読んだ後夏目漱石やらなんやら読んだってわかりっこないんだろう。そうなっちゃうことを私はすごくもったいないと思う。
 から、古いものでも名作と言われるものを読んでおくのはそれなりに大切なことなのかもしれないです、よ。別に最近のものは読むなって言ってるわけじゃなくて、固定観念的なものを悪戯に自分の中に作りすぎないようにするには、頭(古いもの)から入るか尻(最近のはやりのもの)から入るかっていったら頭からは入って幅広くやったら良いのではないかと、私は思っているということがいいたいだけであります。「鯛焼きは頭から食べるほうです」って言う感じの柔らかさであります。私はそんなに言い張りたいとか、言い放ちたいとか、そういうのじゃないのです。このホームページはそういうところだと思っていただきたい。
 今日は楽しかった。

12月7日
 中華街に行ったことを書こうと思ったがあまり文章にならない。
 横浜は都会で、横浜のカモメは人間に慣れ過ぎていた。
 なんかなあ、なんでこうも、何も考えずに歩いて食べてお金を払って、服従させたり自慢したり、自慢げに。
 つかほんとに日記書けなくてどうしよう、です。
 自分の部屋の床が、床がというか部屋が寒い。
 碌な事がない。あったかもしれないけどいまは忘れた。

12月6日
まるでだめな若者になっていてすいません。ちゃんとなおりますので。

12月5日 幻肢

 なんかもう、普通に妄想激しい人になって困る。みんなに気付かれたら終わると思うけど、これが気付かれないからこまる。

 あーあ、小論文どうすっかなー…面談までに決めねば。面談は18日なり。
 蜜柑を食べきっちゃって、朝起きた時に飴をなめるのがテスト終わっても癖になりそうで、しろばんば。蜜柑がいいよ。蜜柑が。
 部屋の床が教科書とノートと本で踏み場がない。私の部屋は結構、綺麗な時と汚いときがあって、まあ私の家に来た人がみんな「綺麗だった」っていうのは綺麗な時にしか人を呼ばないからなんですよ。だってふだん「部屋が汚くて困るわ―」とか言ってる人でも、私の部屋が汚いの見た途端に嫌な顔するんだもん。だから片付けて本を売ってから人を呼ぶ。汚い時でもほぼ勝手に出入りできる2,3人の友達はレアです。感動してください。
 あー、そうそう、19日は海に行くんですよー。楽しみです。江の島じゃないです今度は。写真でも撮ってきます。一眼も持っているんですがフィルム代が払えないのでデジカメしか使わない。
 今日はカラオケに行ってきました。カラオケトマトクラブが改装中でしたけど、なーんか改装したら値上げするような気がして嫌だな。帰り道に友達の家に寄って、最近あまりにも寒いから上着をを三百円で譲ってもらった。しばらくは気に入ってこればっかり着ていると思う。
 今日はなんか、カラオケに行って二時間歌いまくっても気持ちが白くならなかったので上着をくれた友達のお姉ちゃんに雪見大福を奢ってもらって、何か快感でした。何が快感だったかって、私は弟の友達から見れば「工藤の姉貴」なわけだが、それってどういう感じなんだろうな、ってずっと思っていて、今日、「雪見大福でも食べなさいよ。工藤さん。」って言われた時に、「これかあ、こういう感じか。」って思ったことが!
 
 化学と数学ができません。文系は頑張った時は蹴り倒せると断言しますが、理数は無理です。もうこれ以上数学とかにいじめられたくないです。なんか私が数学できないことに色々理屈をつけて、なんでできないのか、っていうことの解説をしてくれる人は多いですが、なんかそういうものを超えた何かの酷い力のせいで数学ができないんだろうと思います。だからもう解説はいいです。
 冬休みのスケジュールが割と決まってきた。かなり忙しいぞ。なんでこんなに忙しいんだ。たしかに遊んでもいるが、塾にも行っていないはずだぜ。そうか、模試を受けないと。とか言って、生まれて初めて塾に言われたでもなく自主的に模試を受けるつもりでいる。……この日記を一言で言うとしたら「だらしない!!!」
12月4日  今日の昼:お米、肉まん、ピザまん。

 一寸金持ち気分なので、ブックオフで本を二、三冊買うかな、と思って入ったら狙ってた全十四巻の本が一巻105円になっていたので、「うへあー!!!!」って言って買ってしまって、後一冊何となく小泉八雲集(105円)をカゴに放り込んだら、そりゃあ、そうだけど、結構な支出になってしまって、夜の道をゆっくり迂回しながら家に帰った。本を買うととりあえずあと一週間は楽しいはずだぜ、って思って本当に気分が明るくなる。やっぱり私は本が好きなんだと思う。
 学校では(数学のせいで)学年上がれないんじゃないかということはとりあえず忘れて、のんきに来年小論文を書く授業をとるかとらないか、みたいなことを考えていて、これがなかなか単位取るのが大変らしくて、色々とやりたくない理由もあるんだが、なんか難しいって言われたら燃えるじゃん!て、感じです。きっとこういうことで私は身を滅ぼすんです。今までずっとそうでした。でもいいんですよくないけど。
 よそゆき顔で自販機のボタンを押しながら、僕ぁ淋しい。思って、ココアを飲み干す。淋しいのがまたいいじゃんか、って、そこにいるはずもない女の子が言う。最近そこにいるはずのない女の子が、一人になると周りに発生し過ぎて頭がおかしいんだと思う。「コニャックってフランスの地方の名前なんだよ。」ってにかにか笑って言ってた、気持ち悪い美人に会いたい。ここにいるはずはない。ここにいるはずない。そうだいるはずなんてないんだよ。
 実はブックオフから帰る途中で神社もないのに立ってる鴨居の前で読んでた八雲集が感動的で、感動的っていうか怖くて、怖いしおぞましいんだけども、あの中では「恋」っていうのが輝いてるなあ、と思って、今はここまで恋が綺麗に見えるものってあんまり流行ってないなあ、とか考えた。八雲集に出てくる男は、女に恋をして、その結果、ばけものに殺されそうになったりもするんだけど、なんだか、ねじ曲がってない恋って、あるんだよなぁ、と思わせてくれる。
 つーか、なんかいきなりで申し訳ないが、私は「恋愛」っていう言葉にいまいち実感がやってこない。「恋」と「愛」に分けたいんだが、と思ってしまう。「恋愛」ってなんだいね。恋と愛って同時にできるのかな。ものすごいね、それ。「恋→愛」じゃなくってか、「恋愛」なのか。「愛→恋」ってのはなんか良くわからないが、なんか少女漫画みたいなことになっちゃうが、「恋→愛→恋」ってありだろうか。なんかもうやだな。ギトギトしてきて。
 「恋」と「愛」は分けています。今は一応。
 八雲集は面白いので読んでみてもいいんじゃないかな。貸しますよ。普通の定価590円のだけど。

咳が酷いもんだから家の空気が悪いのかと思って散歩に出たら、さらに家に入った時から強烈になってミカンを食べまくっていたら夕方から夜になって、うん、まあ、明日も試験なんだが、これはいったいどうしたものか。どうもしないんだけどね。てなわけで二時間寝てからもう一回起きて勉強します。ではでは。みなさん変な咳に気をつけて。
 愛国者とか言われた。愛国者という言葉も、色んな意味があるから、使いにくいところだと思う。石原慎太郎とかはずばずば使っていたが。
 私は日本が好きですよ。
 なかなか危うい話しになってくるが、国歌って最近歌わないねえ。
 私は日本の国歌好きですよ。
 て、いっただけで、「ああ、そっちの人なんだ」とか言うのやめてほしい。なんでそう両極端しかないの。

12月3日
 一日中勉強しませんでした。ちなみに明日はテストです。あばばーばば。お母さんを慰めたらやる気がなくなりました。生きてればいいってもんでもないでしょう。慰めてもらえる人はいいですねー。いいですねー。いいですねー。
 物干しざおが反っています。反対向けにせねばならん。でももう立ち上がりたくない。熱がある。脳みそ沸騰して無心になれないだろうかな。
 霞が関に行ってから、小学生の時のこととか思いだし、思い出し責められ続けて、十二歳の時の夕焼けが、今日どこかにあったら、それほど怖いことなんてこの世にないと、言い切れる。あんなものをもう一度見たら、私は恥も外聞もなく泣くだろう。小さい頃のことって、覚えているものだなあ。
 故郷こわい。

むつなうどく。昨日自習の時間にあんまりしゃべったことない男の子から、「国文学って顔してる。」と言われた。嬉しい。でもよくわからない。とりあえずたまには古本屋に行かないと、な。むつなうどく。

12月2日
 女の子は混乱させたり追い詰めたり、任せたりしなければ、すこぶるいとしい生き物だ。と思う。
 私は体調さえ崩さなければ、365日、いつでも、誰も傷つけずに生きていけると思う。もちろん、365日、ずっとそんなふうに接していたら疲れるし、内心ではその人のことにいらつくだろうが、可能か不可能かと言われれば、そら、可能ですな。
 体調崩すと、なんかだめです。

12月1日
 正月はおおいさんと初詣に行きたいのだがまだおおいさんの予定も聞いていない。
 最近碌に更新しなくて、もうだめです。
 何がだめって、考えることが陰鬱です。爽やかだな、なのに陰鬱って言うのはおかしいことだなあ、と思って妙にスカスカした気分でいたら、風邪引いて、学校に三時間目から登校するという贅沢なことをした。一日中何か考えていても、半分くらいは高校がだるいというのとお父さんのことと、昔の家に置いてきたいろんな本のことを考えていて、ただどうしようもなく寂しく、寒い、夜なので、だから、家族と、恩というのは、本当に、難しい、ものです。
 「舐めやがって!」と思って生きていくよりほかありません。もう私は、何をやりたいのか分からなくなってきました、ただ自分を変えていくことこそ本当に狭いことのように思えて、なにか、本当の本当のことをやりたいです。日本人はいったいどうしたんだろうな。
 私は富士山というものを間近に見たことがないのです。それがどうということもないのですが、なんか、情けない。あの北海道のまっすぐな何もない道を思います。私は世界に興味があるわけではない。しかしみんな海外に行くんですね。おいていかれてしまう。
 金持ちなのに心がゴージャスじゃない人よ、なんでそんなふうになるのか、心の中にはどぶ川しか流れていないんですね。とはいえ浮ついた金持ちは嫌だ。本当の川や海や土を心の底に持った、人間としての金持ちが好きだ。
 金の話はどうでもいい。しかし金は随分といろんなことに使える。まさか人を変えられるのなら、希望の格差なんて死んでしまえ。私が、それを出来るなら、金なんて自分を削ってでも稼いでみせるけど、その途中できっと自分を腐らせてしまうんだろう。本当に変えられるんだろうか。策がない。
 人をやる気にしてばかり。そりゃあんたらよりは、熱いことを考えているつもりだけど、私は何のために、何をしてるんだとか思ってしまう。でも自分は間違ってないと、思ってしまう。私はなにをする。小さく収まるほかないのか。世界征服なんてふざけたことをたまに言うけど、あんまりふざけたつもりはないんで、それくらい見渡すような広いことをやりたい。
 馬鹿にしていやあがる。子供も大人もこれからを馬鹿にし過ぎている。自分のことも他人のことも、いまから、何をするか、どうしてそんなに、小さく考えて、「どうせ」の気持ちの中で、どうやって勉強とか商売とかしてるんだろうね。思い出せよ、我々は、青いと言われようと、本当は、熱い言葉で話せるはずだよ。思い出せよ、馬鹿にするな、変なことにこだわるな。驚くべき吸収力と消化力を、私は持っているんだから、本当に誇れることをやりたい。出来るはずだよ。公園なんかに座ってないで、公園の土を握って、何を目指せばいいんだ。
 ここにいるんだから日本一がいいじゃん。それに、まだ日本について何も知らないじゃん。なのにみんな海外に行くのか。外から国を変えてくれるのか。わからない。みんな何も言ってくれない。
 これだってまた、誰かを勇気付けたり、目覚めさせたりするかもしれないけど、彼らの中では宗教みたいになってしまうんだ。信仰されるなんて、寂しいもんだよ。お茶を入れてくれるわけじゃないんだ。みんな遠く離れて行ってしまうんだ。感慨無量。
 ここに留まっていることは、私にとって何になるのか。
 田舎の人は良いな、と思う。出てくるところがあって。
 わたしたち東京の人間は、東京にすべて、世界に繋がるものも、地方に繋がるものも用意されているんだから、生まれたときからの場所で、自分で力を出していくしかないんだよな。私はもうい中に行きたいなんて言えないよ。それは最後で良い。何か成し遂げてからでいい。東京でしか変えられないことが、もしかしたらあるのかもしれない。学ぶところは東京で、寝るところも東京で、カーテンを開けて朝一番に見るのは新宿の街だ。働くのも東京で、飲むのも東京なら、父親も母親も東京にいて、でもどちらも京都と北海道から出てきた、外国を知っている人だ。子供のころから世界を、外国を知っている人に負けまいと思う。彼らに負けまいと思う。
 何のために日本にいるのか、いつか、分かる日が来ると信じている。だから私は外国に行かない。もう外国に行けないからと言って悔しいとも思わない。留学すれば分かるようになるのに英文法の参考書で英文法を勉強して、隣からお母さんに「留学すればすぐにわかるんだけどねえ」って言われても、いま必要なんだから英文法だって勉強するし、英検だってもうあんまり一級でも取らない限り相手にされないの分かっていても、いま必要なんだから勉強するし、なんだって必要なら勉強するけど、自分、何のために勉強してるのか分からないのに、いまやれって言われてるから宿題やるみたいな、もそういうの嫌だー。世界のスケールが分からない。日本のはじっこも分からない。
 外国人が分からない。日本人が分からない。東京が分からない。新宿が分からない。家族が分からない。自分も分からないような。
 結局布団の中で死ぬような、そんな狭いことは絶対いやだ。やるきが出せない。

愛情
 
僕はもうね、何も見たくないよ。
なまぐさすぎるんだ。汚いじゃないか。あまりにも。汚いじゃないか汚いじゃないか。
今日とってもいいことがあったんだよ。でも僕はそれをどうしたらいいんだろう。みんな離れて行くんじゃないか。離れて行くんだ。
あなたは真面目だよ。それは僕もよくわかっている。死ぬほど勉強したってあなたはそれを守り抜いている。あなたは気づかいができる人だ。僕はそれをよくわかってる。信じている。疑う理由がない。
僕は女の子のことを嫌いだけど女の子は好き。ああ、うん、そういうことを書いてもいい場所なんだよここは。書いてみたかったら言ってね。
もうそんな、本当はどうなんだろう、女の子とかどうでもいいのかもしれない。実を言うと心の節目の黒いところの色だけが僕は気になってるのかも知れない。今日はとっても憂鬱だった。
今日はとても憂鬱だったよ。ひとりだった。とてもいいことがあったんだ。でもそれを僕はお母さんに話せないよ。話したら汚くなってしまうもん。僕がお母さんを愛せないというのは嘘です。お母さんはとってもいい人。お花みたいな人。おかあさん大好き。でも僕はやっぱり表面上僕は、お母さん、僕は、いつかのことは、僕は、朝が来るたび許しています。離れて行くとしてもまた、朝が来るたび許すだろう。でもねお母さん、僕は今日、とても苦しかった。
弟が精神安定のパワーストーンを買ってきた。僕はそういうものがくだらなく苛立たしいの。
お母さん、僕がお母さんに軟禁されてもう随分な年月が流れたが、それは僕が体で女の子だからでしょう。でもね僕は今でも信じてるよ。いままで起きたすべての事も許せるつもりだ。でもお母さん、夕焼けの空に信号の赤や黄色が滲んでいるのを、もっと滲ませることをじゃんじゃん歌いながら自転車をこいで帰ってきた。途中から真っ暗でとても悲しかった。夜家に帰らなきゃならないのはなんでなの。私たちはお互いに今日のことをかさかさにするためにあるのに、一緒に今日のことを話すのはなんでなの。なんでそれを望むの。どうして何を思ったかは言ってくれないの。なんでなんでなんでなんでだろう。僕は公園の草に寝ころんで明日の朝まで待っていたい。昔の仲間がそうしたように、お酒を飲みたい。飲みたいよ。最低だな僕は。
今日とってもいいことがあったんだよ。でもあいつの言い草がむかついたさ。女の子が女の子であれるならそれだけでもう幸せじゃないかって思うんだよ。いや思ったんだ。よく考えたら絶対に間違いだからな。みんな悩みがあるんだよ。どんなに構ってもらっても。みんな苦しくなるんだよ。分かってないと言われても、それなら分かりたいと思ってしまうんだよ。そんなことは、そんなことは、そんなことはっ……どうでもいい。そんなでもない。僕は長い休みのたびに男の子になってしまう。それで苦しむ。いつも長い休みはブランコをこいでいる。必死になっているうちに気持ち悪くなっておえっ、ってなっちゃうんだ。それで草の上に寝転んで泣くよ。だから散歩なんて少しも楽しくない。気が晴れるんじゃなくて、気が乾くんだ。こう、ぱりっぱりに。肺の右上が欠けたみたいに痛くて、鎖骨の辺りは物凄くさみしくなる。こういう日が続けば間違いも起こすよなってくらいに、暗い暗い曇った日が続いて、そう、結構天気に影響されるね。急に晴れたりするでしょう。そうすると僕は葉っぱが、並木が紅葉しているのに気付く。たとえば昔に書いたおでん屋の嘘の作文に出てくるおでん屋が、ほんとにこのイチョウ並木の向こうに見えるような気がする。
しゃがみこんで、しまうよ。
月の娘みたいだ。
もう金魚も死んだのに、僕は金魚がとても大切で、でも、お母さんのためにも家に帰ってこれるんだと知りました。お母さん大好きだ。でももう僕は誰かや何かを憎まないと、絶えず自分の想像の中でそれらを刺し続けないと、生きていけないような気がするんです。そうなったら廃人間だよ。もうすぐそこなんだ。
みんなお母さんが好きというよ。知っているんだ。その気持ちその愛、その温かさ、その煩い意味も。まるで知らないんだろ、って目で僕を見ないでくれよ。感傷的なフリをしちゃう。胸が痛いよ。嘘だけど。
こんな話はやめたい。やめた方がいっそいいだろう。昨日死んでも何も明日と変わらなかったろう。ついつい不親切にしてしまうよ。今日悔やまれるんだ。いったい何が大切か分からなくなったなんてウソさ。暇なんだ。心の中が。ずっと昔からのぽかんとした気持がひりひりしてるんだ。朝なんかは膿んでいる。草の上で泣ける僕は優秀だと思う。神社で寝ることもできる。だって僕が一日の大半を家で過ごすことはすなわち首吊りを意味してる。見えない断頭台もそこにある。そいつはな、白いんだ。寝ようとすると、布団の枕元に、足元に、引き出しの前に、ドアの前に、食卓の下に、見えるんだよ。誰かもっと見える人がいてもいいだろう。いないよ。いるはずがない。僕は、ひとりだよ。どんなにたくさんで暮らしたって、本当に大切なことを守っていきたいもの。結局みんな二人になると僕を恐れているんだ。何もかも、いや、何も暴いたりしないのに。見すかしたりしないのに。なんでだろう。嬉しいんだ。二人でどこかに存在しているということが。それがだれでも。どうして僕は、いつも、何もかもささげるつもりでありながら、胸に穴が開くのを怖がってるんだろう。その朝の方が、一人で煮詰めた朝よりは、幾分ましだとも思うのに。僕は本当に、失望されてもいいんだ。失望されれば普通の人間同士になれるだろう。難しいことだね。こんなに長くなってしまう。なのに僕は何にも云えないで終わるんだな。うれしいものを見ているはずなのに、自分の両足のひらがついている集合住宅の床が、かなしくて仕方ないんだ。髪をかきむしるほどかなしくて、もう、可愛いとか面白いとか、優秀だとかいいんだよ。いわないでくれ。ずっと、たのむからそう言っていてくれ。言っていてくれて、いいんだよ。どんな夜も。私はオレンジジュースを、公園の水を、お茶を、世界一かっこよく飲みほして、「君もどお」って言うだろう。
きさまを口説こうとしているんだが。
なあ、なあ、なあ
なんで一人で生きていけないこと分かっているのに、突き放されたって顔をするんだ。こんな素敵なお約束がここにあるのに。
今日は本当に、何の不満も抱いてはいけない日だった。こんなひに僕は死にたい。出来ればあの一瞬だけを切り抜いて。僕なんて死ねばいいのに。
ついで白状するがあんたの家のみかんを毎日盗りに行ってたのは母の猫です。
毛布の裏に隠れて毛だらけにしたのは私の猫です。
さはれ!(古語辞典でひきましょう。)
君が想定するような暗いことは的外れだし、そんなもの楽しい。
想定できないことは愉快だし。
もう嘘を言わじとおもひき。それは今朝

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