夕帰りの子供たち 平成23年1月の日記(13日から21日)

1月21日 精神科の藪蛇!
 
 何もかもを言葉にするためだけに生きていて許されるくらいの学歴と人望がほしい。あと白菜買うお金。
 ほんとに今は人間らしく生きることに精一杯なのになあ。まだ頑張る?
 やめたら死ぬぜ。

僕はもう未来のことなんてどうだっていい。本日ただ今を生きていればそれでいい。というかそこまでしかフォローできない。気に登っても何も見えない。すっかり何もかも嫌になったんである。自分もその他も。

1月20日 即効力 歪み
 
 大好きな彼女から初めてのメールが来てものっそ嬉しい。二十日はそれだけの日でありました。
 それでも今日も掘り進まねばいけない。のんびりしている場合ではない。分厚い石板にぶち当たるたびあの話を思い出して笑いながら横道を掘っていく。
 その場にいなかったらすべては人からの情報に頼るしかない。不確かでぶれがちで、死にがちな本当のことを掴みとることなど困難だが。本当のことより円としての場の美しさだよなあ。もっと頭良くならなきゃ。もっと本を読んで、もっといろんな意見を知って、死ぬまで勉強だよ、君。その場で言えることが大切なんだから。後で行ったらそれは円からはじかれた点にすぎないよ。
 後でいいわけするみたいに付け足すことは頭が悪くてもできる。私だってついこの前までは盛んにやっていたように!
 いつも殺すぞみたいな目で舐められてるから、今言えることは今日のうちに書いとこう。もう殺される。いつか殺される。怨みなんて優しいもんじゃないなあ。
 私こそ最近A子を見てると彼女を分解することしか考えられない。あまりにも部品だからね。あまりにもその一つ一つの部品がぎりぎりのラインで機能していて、一個外したら壊れるからやってみたくて仕方ない。N氏についてもやってやりたくてしかたない。何を?なんだっていいだろ。どうせやらないからね。
 生きていてよかった。こんなに一人で平気な夜ばかりあれば自己犠牲の精神だっていつか生まれるかもしれない。友達にドグマチックという言葉を習いました。だからどうってことじゃないけど。ありがたう。
 私は他人の命が無駄になっていくのが惜しい。私の何倍も生きる予定で私の何倍も言葉を知っていて、私の何倍も学があって、意欲もあるのに、程度の低い言い方しか知らないですべて無駄にしている。低空飛行を決め込むにはまだ早いと思うよ。私のことを苦手とか言ってる場合じゃない。
 私のことをいいなって下から見上げてくる人たちは、
「工藤さんのこと好きです。」
「工藤さんとカラオケ行きます。どういう歌歌うんですか調べていきます。」
「工藤さんが読んだ本読みます貸して下さい。」
「(古本屋に入って)工藤さんが立ち止まってめくってた本、私買います。」
「工藤さんが教祖だったら信者になります。」
……ぱあああ!なんかみんな、尾崎豊の歌聴いてガラス割りに行くような感じだよね。おまえなあ、って感じだよねえ。十五の夜聴いてバイク盗難増えるみたいな感じだね。人の気持ちを考えろ。あまりにもうわべだけだよ。
 
僕はほんとにばかでした。何か間違ってました。けど間違ってたからわかったんだ!
まずはお友達からお願いします。
でももう本気で力がないなあ。悪いがひしゃげた。人を信じるっていうのは自己満足だとか思ったよ。誰のことも知りっこないんだからね我々は。海行こう。のみすぎたわい。荒れるぼく。感動したのに言葉にならない。言葉になっても伝えられない。私の一番怖くて苦しい地獄はそういうところ。

1月19日 居ない日記

 眠りすぎて、気付けば始業時間を二十分過ぎていた。少年は飛び起きて、それから考えなおしてヨーグルト飲料をゆっくり飲んで、干からびたトーストを四分の一食した。ガス栓を閉めて家を出る。弟の寝息が誰もいない薄暗いリビングに染みわたるように漏れている。
 少年は通学路の途中で廃人君に会った。
 声をかけると廃人君は何も見ていない目であいさつを交わし、笑わなかった。彼はいつもはらはらしているようでいて、のっぺりと、自信家のようでもある。まともに口をきくことが少ないので誰も彼の知能の程度や趣向について、いったいどういう人間なのかと考える材料さえ誰も得ることができないのだ。ただ皆は彼の愛用している古びた靴やたるんだ靴下、色あせたタイ、どこも見ていない気な目などを見て勝手に「廃人君」と名付けた。もちろん彼はそれを嫌がるそぶりも見せなければ喜ぶこともなく、そのあだ名で呼ばれて振り向くこともない。
 踏んだかかとを直しているうちに廃人君は吸い込まれるように少年と同じ教室へと一足先に入っていくのだった。
 少年は喜劇が好きだ。
 俺もたいがい廃人だよと彼は思った。最近時間の感覚がおかしくなっているのだ。ノートに関係のないことを書きつけていると一限目の化学Tの授業が終わった。
 
 今日のように晴れ渡ると思い出すのは太陽座によく行っていたころのことだ。太陽座は昔住んでいた町の小さなぼろい映画館で、千円で昔の映画が二本見られる。毎週のように通った時期があった。
 太陽座の前ではいつも主人が長い箒で入口を掃いていた。とても乾いた風が入口あたりを滑って行くので、黄色い砂がいつも赤いカーペットに積もってしまう。それを排水溝に落とすのだ。映画館の黒ずんだ裏壁を伝っていけば行き止まりの小道が走り、奥の行き止まりに近いところは陰って湿っていて、苔が地面と壁を覆っていた。コンクリートブロックが積まれていて、それはだけ新しく、苔とは無縁だ。コンクリートブロックは太陽座に自転車でやってくる当時中学生だった彼やその友人たちが座って話ができるよう、自分たちで空き地から拾ってきてそこへ積んだものだった。小道を挟んで向かい側には倒壊しそうなレンガ壁のアパートが迫っていて、コンクリートブロックに座って大きな声で話していると窓を開けて怒る人もいた。ベランダに這わせたブドウにできた房をいくつか落として分けてくれるような人も住んでいて、いつでも変わらず、夕方にはピアノがどこかの部屋から往来へ漏れ流れていた。
 小道から見上げるとアパートのレンガと太陽座の瓦に切りぬかれた青空が見えた。とても乾いた風が、アパートのベランダのそれぞれに繁る葉を揺らしていた。友達の何人かはたばこを吸っていた。
 少年は近頃、そういう記憶にすがりながらなんとか命を続けているような気持ちがするのだ。いま古文の授業を無視してローマ喜劇という本を読んでいる。快晴なり。 

 尊敬すべき困った代物
 
 急激に私は引き締まり、怖いことはなくなったみたいです。
 もはやどんな酷いことが歩いて来たって、私はあらゆる免許を駆使して適切に分解、廃棄できるだろうというひそかな自信が、未熟な中にもプラスチックフィギュア押し込まれたみたいにやわらかい肉の中、生きています。何も怖くない代わりに、誰にも会えそうにないのです。ニュースがダブル受賞のこととトキのことばっかだ。太宰が受賞できなかった芥川賞を蹴りたい背中とかそういうのが受賞してるのはなんともいない。ううむ。私は蹴りたい背中とか去年の受賞作とか、自分ではあんなの書けないから偉そうなこと言えないが、どうにもならん苛立つ。
 でも私は小説が好き。

1月18日 天蓋
 
 もうやだ学校に行きたくない。
 家族やだ。
 家やだ。
 てめー
 そんな程度の嫌悪じゃないのに、どうして誰も分かってくれない。死んでくれ。
 家族が好きな人の中で、学校が好きな人の中で、人生がばら色の人々の中で、寂しい山の景色を死に物狂いで描いている、この私を気遣えよ。
 金が使いこまれていた。死にたい。どうだっていいのさ。金なんか。信頼というものがなくなっただけだ。もういいんだ絶対に。どうでも良いに決まってる。分かってたから。
 
 なんか一日中武者小路実篤の棘まで美しをなめくじみたくゆっくり読んでいた。力がないのだ。
 ほんとに僕をもう少しだけしばらく生かして下さい。お願いします。
 お前のように育てないのは仕方ないだろ。殺されたい。くそう。お前みたいな人参やろうに!

1月18日
 
 廊下で硯が割れていた。
 家に帰って暗い窓の外を見たら東京タワーが年取っていた。
 若返り続ける試練。忘れて次に行くってことの本当は、何も信じ切らなかったこと。人間として酷い。幸せになれっこない。我々は嫌な社会に生かされてるんだ。踏みつけながら挑発するけど、これが全て進み始めたら結局のところ私の居場所なんてないのさ。爽やかな朝だな。
 痛むかいときくんだ。きいてくれよ。もしくは兄弟のようにいすを並べて一本の薔薇を書こう。棘の先まで舐めまわしてさ。常識を破ってさ。惚れてまうやろとか言いながら。
 最初から言葉なんて別に好きでないんです。減っていく一方で。同じ人を抱きしめ続けていればいいじゃないかね。白痴でも。芸としてぶつけ合うならまだしも会話というのはありえないほど退屈になりがちで、ぎんぎら過去の国、迷い込んだら「精神的に向上心の無い奴は馬鹿だ。」って繰り返している。K、うるせえよ。数えているうちに一年抜かされたんだ。死にたい気持ちだって降るさ。
 理想はいつも兄弟のように。そして幸せになるように結婚したい。そうだね。

 
 
 

やっぱりお父さんが本気で嫌いだ!  


1月17日
 
 押しふさがれた状態で自分を好きって言っていても、あくまでそれは、思う存分やった時の本当に自分を愛している時の言葉じゃないのかもしれない。たとえばアフガニスタンで戦争が起こって、踊ることや歌うことが禁止された時、歌うことや踊ることの素晴らしさを忘れない自分が好きって言ったって、それは自分を慰めるためだけの言葉なのかもしれない。
 でもそれを日本に住む私も口にしてしまう。この学歴も力も権威もない少女時代においては、正しいと思うことを主張し、自分に反映する自身を好きだって言うしかない。
 その先にある何かを今のうちに見ておかなければいけないのに。
 地面を掘って水道管を取り替え続けている後輩は地面の下のことで頭がいっぱいで、そういう自分の醜態が、時々心に染みて嫌になると言っている。私に、将来のことで頭がいっぱいになるのも地面の下のことで頭がいっぱいになるのも同じようなことだといつも言う。この時代においては、と。
 結局いつたちきられるかもわからないし、出来あがる上限の雰囲気はなんとなくお前も分かっているんだろうというわけだ。奴も嫌な生活をしているもんだと思う。本当に泥だらけになるんだぞと同じ年代の後輩に怒鳴りつけたくなることもある。子供にも、格差はあるんだ。白い肌でフカフカのセーターを着てる16歳もいれば、泥だらけの借り物のの作業着以外にはスウェットの上下が二セットしかなくて、家賃三万のアパートに弟が帰ってくるのを待ちながら勉強している16歳だっている。
 私は自分が罪深い奴に思える。家賃十二万のURマンションに住みながら本が買えないとかほざいて、本なんて買えなくたっていいじゃないか。図書館行けばあるんだから。母は春休みの間だけでもフランスに留学しないかと言ってくる。飛行機代ならなんとか稼げるとか言う。私は少しも行きたくない。パリで東京のことを考える日がどんなに苦しいか、考えるだけでぞっとする。何とかして自分が住んだような家に近いところに住まわせ、自分が受けた教育に近いものを受けさせてくれようとしているのは分かる。しかし私の問題はすべて東京にある。そしてもっと地に足のついたところにある。
 お金にならない。やることすべてがほんの少しのお金にしかならない。親の目を盗んでできる働きしかしてないからなのだが。
 私は家賃十二万の住居なんかいらないのだ。なーんでお金もないのにどこから家賃が出てくるのかと思うとどこかで誰かに必ず面倒をかけてお金を出してもらってるにきまってるんだから、この的外れな好意の宛先の場所に住むのはもう辞めたい。
 きっと自分は正しい大人になれると信じる。
 今はこんな狭い所に押し込められて、毎日毎分毎秒外に押し出ようと考えを続けているのに一向に開けない。大人になったら抜け出ていけるというんならさっさとなりたいもんだ。
 私はなんの過酷な肉体労働もしていないのに毎日ぐったり疲れている。どうしたものか。少々自分が痛すぎる。自分の中に湧きでてくる無駄な言葉が胸に染みる。書きとめておこうとすると消えるのだ。
 なんでもかんでも、この時代、とかって言うのは良くない。
 ここじゃあ、大人は誰も私のことを知らない。こんな中国の砂漠に立ちすくんでる気分のまま、萎びていきたくないじゃない。

1月17日 
 
 今日は今年に入ってから一番寒い日で、道路の淵が凍っていました。
 私は家まで自転車をこいで家の隣のコンビニでイチゴ牛乳とカップ麺を買う。ヒグラシが電球の中で鳴いている。濁った空気は野焼きのせいか。
 かなしいね。電話したい。ひとりでよかった。

1月16日 悪友!
 
 ずっと連絡が取れなかった小学校の同窓生から年賀状が来た。生きてたのかという感じだ。ありがとー。有名にならないとだめだって言ってたけどお互い知る限りでは有名になれないでいるようですな。モーニング娘の踊ってるのが夕方のブラウン管テレビで流れない日はなかったような頃には有名になることって簡単に思えた、けど。
 私が一番聞きたいのは、病気は治ったかいということだ。あの子いきなりまっすぐ立てない病気にかかって大変だったから。
 大好きだったんですよ彼女が。だから年賀状をくれてすごい嬉しい。しっかしあそこまで病気が似合わない奴はいないや。
 1993、私も彼女も生まれた。
 そうか私が生まれたのは1990年代だったんだね。どうりで80年代生まれには追いつけない。ちょっと私は背伸びし過ぎだ。走りすぎだ。自分の十代ってやつを忘れるな。で、よく考えたら彼女と私は幼稚園も一緒だったんだ。笑っちゃう。私は彼女に彼氏を紹介されたら結構、きっと寂しい。お芋を抜いたんだよ一緒に。幼稚園の畑でね。会いたいなあ。ほんとに。
 返事を書く。会いたくてたまらん。電話でなんて話せませんよ。電話番号は知らないし、知ったとして、もう何を話せばいいのか分からない。最後に会ってから五年も経ったなんてねえ!嘘みたいな話だね。

フェロミア50mg
 
 ちょっとこれから一週間と二日はいつもより勉強しなきゃいけないので今日からフェロミアていうエーザイの薬を飲んでるんですが、まあちょっと楽になる薬です。
 
 貧血なおす薬です。
 これは良いです。副作用で気持ち悪くなるからいつもは飲まないのですが、私がこれを飲むと二十四時間続けて同じ作業を続けても苦にならないしいつもの倍の速度で本が読めるし、妥協しない勉強ができるし、冴えるし、集中力はおかしいくらいに上がる。よーするには嫌な奴になります。
 まああんまり薬飲むのは好きじゃないのですがね。
 こんなもん飲まなくてもちゃんとやれよって言うんですね。そうですね。でもこれ飲むと足の色変わるくらい貧血治ってぽかぽかする。あくまで個人の感想ですが。
 覚せい剤かい、と思うくらい効くのでやっぱり一週間と二日飲み続けるのはやめようと思います。やめやめ。日記うまく書けないし。

1月15日 私って閃く時もあるんだけど、時々我ながら変なの。
 
 夏までにやるべきことがたくさんある。
 連日の決闘に私は神経が張り詰めて、ちょっと我ながら様子が変だ。
 まず椅子にじっと座っているということが近頃とても苦痛で、じっとしていられないわけで、貧乏ゆすりも片足じゃ足しなくて両足でやるとか、周囲に迷惑なことこの上ない。
 昼も夜も頭が痛くてどうもいかれている。いや、心配はいらないんです。冬になると毎年、このくらい頭は痛くなる。んーと、それから、非常にのどが渇く。貧血。胃が痛い。歯が痛い。
 だいたい虫歯だってこれまで十何年間もできなかったのに今年になっていきなりできるなんて怖い。
 今日もセンター模試を東進ハイスクールで受けようと思ったのだが下北沢駅でどうにもならなくなってそのまま帰ってきた。あほである。変だ。何がどうにもならなくなったのか聞かれてもうまく答えられないところがますますどうしようもない。
 眼球の黒目の色が急に茶色っぽくなった。
 正月あたりから突然睡眠中夢を見るようになった。
 どーも色々自分をいじくりすぎた感じもする。体にはまったく手を加えていないけど。
 でもこれまでのどんな時代の自分よりも、今の自分が好きだ。そう言い切れるのは初めてで、とにかくうれしい。だが体調を崩すのは嫌だなあ。別に元気なんだけど、なんか、変。
 貧血も胃痛も頭痛もどうだっていいんだけどね、いつものことだから。
 なんか夏のころから体が壊れ始めてる感じがあったが、これは一回医者に行かなきゃ駄目かなあ。めちゃくちゃする割に体強くないからなあ。でも楽しいことはやる。
 余命三ヶ月とか言われたら荒むから医者行くのやめよう。
 ばーん。

注意:情報を御覧の際は適切な距離はなれて見守ってください。

1月14日 空を飛べたらと
 
 空を飛べたらいいのにと思う。…ガキとか言わないでくださいよ。
 私は生身で空を飛べたことはないが、空を飛ぶのがおそらく好きだろうと思う。ハンコックとか、スパイダーマンとか観ると、毎回、「空が飛べたら私だってそれをやるさ。」と思う。私は弾丸を跳ね返す体だとか、飛べる人体だとか、永遠の命だとか、そういうものがとにかく手当たりしだいほしくてしょうがなくて、ほしくてほしくてほしくて、そういう映画だとか物語が別に好きなわけでもないのに、ハンコックとかスパイダーマンとかの、ほんの一場面を見ただけで目が離せなくなる。自分からすすんでは見ない。好きすぎるから、危ないでしょ。そんなもの何億日見続けたって、ハンコックやスパイダーマンにはなれない。
 わかっているが、わかっているが、空を飛んでみたいじゃないか。マシンガンの弾跳ね返したいじゃないか。人間とは思えない速さで走りたい。ヒーローになりたい。
 ヒーローって言うのも難しい言葉だけどさ。
 私はそういうのも好きなんです。と言いたかっただけ。
 でもどうだろうな。結局最後に「自分だって○○できたらやってみせるけどさ。」と思わせて終わってしまう映画とか本とか、ってどうなんだろうな。アクションを観賞する映画だからそう思っちゃうのは当たり前かもしれないけど。
「スパイダーマンはあそこでお姉さんを助けて有名になってたけど、私だって体から糸が出て、空を飛べたら、助けられたわよ。でも、無理だからね。うん、まあ、面白かった。お隣に貸してあげようっと。」
みたいな。まあ受け取る側にも問題があると思うんだけど、あまりにもアクションのかっこよさだとか、当てつけたような恋の話、とかばっかり強調する作品というのは、ちょっとどうかとおもうな。別にそんなもの作るなって言うんじゃなくて、そんなんばっかになるのはどうかなって思う。
 映画を作る人も本を書く人も、登場人物とその場面を本当に愛していたら、そのすべてを自分の最愛の人のように思っていたら、こうはならないんじゃないの、というカスカスな作品が多い。
 ハンコックとかあんなもんは激烈な暴力反対派か性的な臭気に極端に敏感な人でもない限り、誰が見たって面白かったり感心したり、憧れたりする。そういう点で、いつもセクハラにものすごく敏感でキリキリしてる人とか、激烈な暴力反対派の人などは、最も簡単な娯楽を楽しめない、楽しむのが大変な人々なのかもしれない。
 セクハラもね、あんまり敏感になりすぎると、不自由と思いますよ。生まれながらにしてすべてがセクハラに見えますみたいな人がいるじゃないですか。たまに。そういう人を見ると、楽しいかなああの人、って思ってしまう。
 話がずれました。
 私があるとき書いた文章にもちょっと書いたことだが、本当に登場人物や、自分で作り出した場面を愛してたら、たとえアクション映画であっても、アクションが素晴らしいだけじゃあ済まないと思うのですよ。たとえばギャグ漫画だったとしても、ギャグが面白いだけじゃあ済まないと思うんですよ。ただこの男の子かっこいいだろ!っていうのが主題のドラマだったとしても、確かに彼はかっこいい、ってだけじゃ済まないと思うんですよ。
 たまにこれを言うと、「あ、そうか!では伏線を足そう。」とか言って、小手先の工夫だけで「どう?深いでしょ?」というふうに自慢してくる人もいるけど、そんなんじゃないし。深いとか求めてないんですよ。本を書くんならその一行一行にどれほどの愛情をこめているか、映画を撮るんならその一秒一秒、その手の動きの一つ一つにどれほど気を使って愛をこめてるか、そういうことであって、その愛は作る前から始まって作っている最中も途切れることなく、作り終わってもなお続くというような、三十年たってもそのことをいとしいと思い続けられるような愛でないと。
 最も簡単な娯楽に対して、最も簡単な部分でしか楽しまない人が多い中でそんな素晴らしいこと、無理かもしれないけど。
 そーゆーわけで私は「ピーターパンとウエンディ」が好きです。おもしろいとかわくわくするとか、登場人物がかっこいいとか、全部抜きにしても何か残ると確信させてくれる。しかしながら残念なことに、その何か残ったものというのを言葉にするのは私にとってなかなか難しくて日記なんかじゃ書けません。つーかこないだ学校の評論集もらって中身見たら高3の人とか、私が日記に書いてるようなことをちょっとかっこよくしただけで載せてて「えー、変にべたっとしてんなあ。」とか心の中でぶつくさ言っていたんだが、評論なんて自分が考えたことを書くんだから、使いこなせていないキャラクターを無理して使ってお話を書く時よりもっと自由に言葉がつかえるはずで、しかも誰よりも何よりもその時自分が好きでいる、正しいと思ってる考えを書くんだから、もっと伝えようとしちゃっていいんじゃないか、とか思ったりします。
 リンチするみたいにそこにあるものを、整理した考えも持たず蹴って殴って踏みつけるような文章を書くのも私は嫌いだ。そんなのどうにもならないじゃない。人に対してそういう接し方をするのも好きじゃない。それじゃどうにもなりようもないし、だれもうまいようにはならないだろうから。
 せめてうまくできなくて乱暴になってしまうんなら、必要な言葉を代弁してくれるような本気の作品を差し出すべきだ。「乱暴で押しつけがましくてなんてやつだ!」と憤っていたり避けていたりした人たちが、立ち止まって感動に打ちふるえるような、「なんか…これはすげえ!」と俯くような。そういうものを作れないなら、もっと慎重にしょっちゅうぐっちゃぐっちゃにならないように、適度な距離と適度な温度で見守れる人間にならないと。
 自分はできてる。仲間がほしいという人はそうでない人に対して先生的存在になることはないけど、通学路の八百屋で働いてる、いっつも声かけてくれるおばちゃん、くらいにはなってほしいものだ。むしろ全員が先生ではなく、八百屋のおばちゃんや花屋のお兄さん、など、色々いたほうがよい形の層が、人の中にできるかもしれない。
 天皇陛下万歳の兵隊さんがいて、まだ兵隊さんがいて、兵隊さんがいて、兵隊さんばっか、っていうより、天皇陛下万歳の兵隊さんもいて、戦争に行かない体の弱いお兄さんもいて、猫ばっかり撫でてる男の人もいて、会社員のお父さんがいる、そして小学校の先生をしている三十路男もいる、ってなほうが、その国の男の子はちゃんと考えるかもしれない。
 みんな儲かるからって、ちいとも養分のないものばっか世に送り出すなってことですよ。それでたぶん、私はここに、書いてることが間違ってようがあってようが、後々間違ってることが分かろうが、書くことをやめちゃいけない。読んでくれている人がいてとてもうれしい。毎日怖いけれど。あらゆるもののひとかけらとしてとらえてくれるとほんとに嬉しい。
 ちなみに偉そうなこと言ってるけど、こんなこと考え始めたのはつい一週間前くらいだから、当然評論文集に載ってる私の評論にも今の私が見れば「どうなのよ?」って思っちゃうところもあって、それがきっと成長ってことなのかもですね。そう考えるとなんて怖いんだろう!
 あ、そういえば、「情報を御覧の際は適切な距離はなれて見守ってください。」というのを書きたしてみたけど、学校の人も見てるから書き足したのです。
 ちなみに、この日記にセクハラのことや兵隊さんのことが出てきたところで激しい怒りを感じたり、ぱそこを破壊したり、明日から私と口をきかないぞと思った人は、少し情報からの距離が近すぎたようです。色々な障害を起こすのでもうすこし離れましょう。この日記を読んで心を支え切れなくなりそうな人は、部屋を明るくしてみてください。

1月13日 夕方達よ
 
 さてさて、一度怒った八百屋のおばさんは静まらず、大通りを駆けてゆく。
 裏道のほうではAKB好きのボンボンがウイスキー嗜んでる。そこはかとなく汚い空気と、そこはかとない未来の悟りを愛せども何もないと嘆きながら。宿題がまだ終わってないだろう。
 今日カラオケに行った。ちかごろすごいことになってるんだ。さてさてすごいことになってるんだ。この言葉も誰かに喋ってほしくて、ただ洗脳になるのは嫌だな。白い像。月より明るく光るなんて、まるで人間を相手になんかしていないんだよ。だれもかれもアイドルが好きだな。むっちりしてる。私の髪には三日連続で寝癖がついてる。そう。そういう日々だよ。愛すべき夕帰り達に、私は近頃夜に帰る。夜が来るのがうんとはやいんだ。君の書いた感じばかりの作文を何度も何度も読み返すうち、切実な気分になってくるんだ。
 歌詞が書けたら。カラオケで私と彼らの歌が歌えたら。
 寒い部屋で野菜ジュースを飲む。昼間の埋め合わせをするように。夜の糸が布団に染みている。さてさて古い本を開いて、彼らが戻れないところに、今日も私は帰れるんだと、確かめよう。腐ってしまわないように。見捨てられてしまわないように。お前たちが死んでいるから、私はいつまでも優しい人を探すんだろう。
 さてさて苛立つね。恋を安く見積もる人たちは。しかも事故った後から見積もるんだ。しかし正しくするのは大変で、誘惑に弱いから若者は。だから部屋につないでおくしかないよ。
 カラオケし過ぎだな(笑)楽しかった。

 

 

inserted by FC2 system